お金の貸し借りに関するトラブルについて、江戸幕府が「裁判では取り上げないので、当事者同士(相対)で話し合って解決しなさい」と命じた法令です。1661年に最初に出されましたが、特に有名なのは1719年に第8代将軍・徳川吉宗が享保の改革の一環として出した相対済令です。武士の借金問題によってパンク状態になっていた幕府の裁判所(評定所)の負担を減らすことが目的でした。借金そのものを帳消しにする「棄捐令」や「徳政令」とは異なる点に注意が必要な、歴史の重要な法令です。
お金(貨幣)が世の中に回り始めると、お米を給料として受け取っていた武士たちは生活が苦しくなりました。彼らはお米をお金に換えて生活していましたが、物価が上がると収入が追いつきません。そこで武士たちは、裕福な商人たちからお金を借りて生活の足しにするようになります。しかし、借金は雪だるま式に増え続け、どうしてもお金を返せない武士が続出するという深刻な社会問題が発生し始めました。
お金を貸した商人たちは「武士が借金を返してくれない」と、幕府の裁判所である評定所(ひょうじょうしょ)に次々と訴え出ました。すると、幕府の役所は連日のように借金トラブルの裁判に追われることになります。本来やらなければならない政治や重要な事件の裁判が後回しになり、幕府の機能がパンク状態に陥ってしまいました。「このままでは幕府の仕事が回らない!」。幕府は緊急の対応を迫られます。
そこで幕府が打ち出した苦肉の策が「相対済令(あいたいすましれい)」という法律です。「相対(あいたい)」とは、当事者同士が直接向かい合って話し合うことを意味します。つまり、「お金の貸し借りに関するトラブルは、幕府の裁判所には持ち込まず、貸した者と借りた者の当事者同士で話し合って解決しなさい」と命じたのです。幕府が借金問題の裁判から手を引くという、驚きの宣言でした。
この相対済令が初めて出されたのは、1661年(寛文元年)の第4代将軍・徳川家綱の時代です。これを「寛文の相対済令」と呼びます。幕府の役人たちは溢れかえる裁判から解放されて一時的にホッとしました。しかし、権力を持つ武士に対して、身分の低い商人が「お金を返してください」と直接交渉して取り立てるのは非常に難しく、商人たちにとっては大損害を被る非常に厳しい法律でした。
商人たちが「もう武士にはお金を貸さない!」と反発したため、武士たちはお金を借りられなくなり、かえって生活が行き詰まってしまいました。これに慌てた幕府は、最初の相対済令から数年後には再び借金の裁判を受け付けるようになります。しかし、裁判を再開すればまたすぐに役所がパンクするという悪循環に陥り、江戸時代の幕府は常にこの「武士の借金問題」という頭の痛い難題に悩まされ続けることになります。
時代は下り、18世紀に入ると、幕府の財政難と武士の借金問題はさらに絶望的な状況になっていました。ここで立ち上がったのが、第8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)です。彼は幕府を立て直すために享保の改革(きょうほうのかいかく)を力強く推し進めます。吉宗は、再びパンク状態になっていた裁判所の機能を回復させるため、かつての法律をさらに強力にして復活させる決断を下しました。
1719年(享保4年)、吉宗は新たな相対済令を発布します。これは以前のものよりはるかに強烈でした。「今後、利息を伴う借金の裁判は『永遠に』一切取り上げない」と宣言したのです。吉宗はこの法律によって、溢れかえる借金トラブルの裁判を強制的にストップさせ、有能な役人たちを本来の重要な政治課題や、強盗や殺人といった凶悪犯罪の裁判に集中させようと狙ったのです。
吉宗の「永遠に裁判しない」という強烈なメッセージは、社会に大きな衝撃を与えました。商人たちはまたしても幕府の助けを借りずに借金を取り立てなければならなくなりました。しかし、吉宗の狙いには「武士たちにお金を借りにくくさせることで、借金に頼る生活を改めさせ、質素倹約を強制する」という厳しい親心のような側面もありました。借金に甘える武士の精神を根本から叩き直そうとしたのです。
ここで注意が必要なのは、相対済令は「借金を帳消しにする(チャラにする)」法律ではないということです。鎌倉時代や室町時代に出された「徳政令(とくせいれい)」や、のちに松平定信が出す「棄捐令(きえんれい)」とは異なり、あくまで「幕府は裁判に口出ししないから、自分たちでなんとかしろ」という突き放した法律です。テストでもこの「借金をゼロにしたわけではない」という点が非常によく問われます。
相対済令は、江戸幕府が貨幣経済の発展にどれほど苦しめられていたかを象徴する法律です。お金の力で強くなる商人たちと、借金に苦しみながらも身分の高さを保とうとする武士たち。この法律は、武士と商人の力関係が逆転していく江戸時代の社会構造の変化を鮮明に映し出しており、幕府の経済政策の限界と、新しい社会システムへの模索が始まる歴史の決定的な契機となる出来事でした。