室町時代の中頃、本州から津軽海峡を越えて蝦夷地(現在の北海道)へと渡る和人(日本人)が増えていました。彼らは道南(北海道の南部)の海岸沿いに定住し、アイヌの人々と交易を行うための拠点として「館(たて)」と呼ばれる頑丈な砦を次々と築きました。この頃、和人はアイヌが獲るサケや昆布、獣の毛皮などを求め、代わりに本州の鉄製品や米を取引していましたが、両者の関係は決して対等なものではありませんでした。
鉄を持たないアイヌの人々にとって、和人がもたらす鉄製の鍋や刃物は生活に欠かせない必需品でした。和人はその弱みにつけ込み、自分たちに圧倒的に有利な価格で取引を強要するようになります。ひどい時には、アイヌの貴重な品物をわずかな米や粗悪な鉄製品と無理やり交換させるような、不当で強引な商売が行われていました。アイヌの人々の心の中には、傲慢な和人に対する怒りと不満のマグマが限界まで溜まっていたのです。
1457年、道南の志苔館(しのりだて)という和人の拠点の近くで、一つの悲惨な事件が起きます。アイヌの若者が和人の鍛冶屋に「マキリ」と呼ばれる小刀の修理(または注文)を頼みました。しかし、その品質や価格を巡って激しい口論となり、怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの若者を刺し殺してしまったのです。このあまりにも理不尽な殺人事件の知らせは、瞬く間に蝦夷地中に広まり、アイヌの人々の怒りを完全に爆発させました。
「もはや和人の横暴は絶対に許せない!」若者の死をきっかけに、東部のアイヌの強力な首長であったコシャマインが立ち上がりました。彼の呼びかけに応じ、日頃から和人の不平等な交易に苦しめられていた各地のアイヌたちが次々と武器を手に集結します。アイヌ民族が部族の垣根を越えて一致団結し、和人に対して大規模な反旗を翻したのです。これが、北海道の歴史のテストで頻出する重要な反乱であるコシャマインの戦いの始まりでした。
コシャマインに率いられたアイヌの大軍は、和人たちが道南の海岸線に築いていた「道南十二館(どうなんじゅうにたて)」と呼ばれる12の砦に向かって一斉に怒涛の進軍を開始しました。アイヌ軍は、毒を塗った矢(トリカブトの毒矢)などの伝統的な武器を巧みに使いこなし、恐るべき戦闘力を発揮します。地の利を活かしたアイヌ軍の猛攻の前に、不意を突かれた和人たちは大パニックに陥り、為す術もなく追い詰められていきました。
アイヌ軍の勢いは凄まじく、和人たちの守りの要であった館は次々と陥落していきます。大将であるコシャマインの優れた指揮のもと、なんと12あった館のうち10の館が攻め落とされてしまったのです。生き残った和人たちは、わずかに残された茂別館(もべつだて)と花沢館(はなざわだて)の2つの砦に逃げ込み、恐怖に震えながら籠城するしかありませんでした。和人の蝦夷地支配は、まさに滅亡の危機に瀕していたのです。
陥落寸前の花沢館で、和人たちを救うために立ち上がった一人の若き武将がいました。彼の名は武田信広(たけだのぶひろ)。本州から逃れてきて花沢館の主の元に身を寄せていた客将(フリーランスの武将)でした。信広は非常に弓矢や戦術に優れた天才的な軍略家であり、「私がアイヌ軍を打ち破ってみせましょう」と絶望する和人たちを鼓舞し、総大将として残されたわずかな兵力を見事にまとめ上げ、反撃のチャンスをうかがいました。
七重浜(現在の北海道北斗市)での激しい戦闘の中、武田信広はアイヌ軍の最大の弱点を見抜いていました。「大将であるコシャマインさえ倒せば、軍は崩壊するはずだ」。信広はアイヌ軍を油断させておびき寄せると、自慢の弓の腕前を活かして、敵の総大将であるコシャマインとその息子を伏兵を用いて見事に射殺したのです。アイヌ軍にとって、絶対的なカリスマであった指導者の突然の死は、あまりにも大きすぎる痛手でした。
コシャマインという精神的支柱を失ったアイヌ軍は、大混乱に陥りました。部族ごとの寄せ集めであったため、指揮系統が崩壊すると瞬く間に戦意を喪失してしまいます。勢いを吹き返した和人軍の猛烈な反撃を前にアイヌ軍は散り散りになり、ついに反乱は鎮圧されました。しかし、アイヌの人々の和人に対する不信感は消えることがなく、この後も約100年間にわたって、蝦夷地では両者の間の小規模な戦乱が断続的に続くことになります。
この戦いで和人を滅亡の危機から救った英雄・武田信広は、花沢館の主である蠣崎(かきざき)氏にその実力を認められ、婿養子として迎えられました。信広の子孫はその後、アイヌとの交易権を独占し、江戸時代には蝦夷地を支配する松前藩(まつまえはん)の殿様へと成長していきます。コシャマインの戦いは、アイヌ民族の悲劇的な敗北であると同時に、和人による北海道支配体制が確立していく歴史の決定的な契機となったのです。