江戸時代の初め、初代将軍である徳川家康は海外との貿易を積極的に応援していました。将軍の赤いハンコが押された「朱印状(しゅいんじょう)」という公式な許可証を持った船(朱印船)が、東南アジアに向けて次々と出航していきました。商人たちは莫大な利益を上げ、アユタヤ(タイ)など東南アジア各地には日本人が住む「日本町」ができるほど、日本はグローバルで活気に満ちた時代を迎えていたのです。
しかし、第2代将軍・徳川秀忠や第3代将軍・徳川家光の時代になると、幕府は海外との交流に強い警戒感を抱くようになります。その最大の理由が「キリスト教」でした。貿易船に乗ってやってくる宣教師たちが、神の前の平等を説くキリスト教を日本中に広めれば、幕府の厳格な身分制度や支配体制を根本から揺るがす恐ろしい反乱に繋がるかもしれないと、本気で恐れて警戒レベルを最大に引き上げたのです。
さらに、幕府にとって目障りだったのが、九州などの西国大名たちの存在でした。彼らは幕府の目を盗んで勝手に密貿易を行い、最新の武器や莫大な富をこっそりと蓄えていたのです。「このまま大名たちが力をつければ、再び戦国時代に戻って幕府が倒されてしまうかもしれない」。幕府は、危険な大名から貿易の利益を奪い取り、幕府だけが国の富を完全に独占する強固な仕組みを急いで完成させる必要がありました。
そこで1631年(寛永8年)、幕府は海外渡航のルールを劇的に厳しくしました。これまでの「朱印状」を持っているだけでは船を出すことを禁じ、追加で幕府の最高幹部である老中(ろうじゅう)が発行する「老中奉書(ろうじゅうほうしょ)」という特別な許可証も必ず持っていくように命令したのです。これが、二重の厳しい許可証を義務付けた奉書船制度(ほうしょせんせいど)の始まりでした。
この新しいルールによって、これまで自由に海外に行けていた多くの中小の商人たちは、海外渡航の権利を完全に奪われてしまいました。「老中奉書」をもらうことができたのは、幕府と古くから深い繋がりを持つ、角倉了以(すみのくらりょうい)や末吉孫左衛門(すえよしまござえもん)といった、ほんの一握りの特別な豪商(特権商人)だけだったからです。幕府による極めて厳しいビジネスの統制が始まりました。
「許可証が2枚揃っていない怪しい船は、絶対に海に出してはならない」。幕府は長崎の役人(長崎奉行)に厳しく命令し、密貿易や密航を徹底的に取り締まりました。もしルールを破って勝手に海外に行ったり、帰ってきたりした者は、死刑という非常に重い罰が下されました。この強烈な恐怖政治によって、日本人の海外進出のエネルギーは急速に冷や水を浴びせられ、国内へと力強く封じ込められていくことになります。
奉書船制度によって日本人の行動を厳しく制限する一方で、幕府は外国からやってくる船に対しても次々と厳しい態度を取り始めます。キリスト教の布教を熱心に行っていたスペイン船の来航をいち早く禁止し、さらにイギリスも貿易の競争に敗れて日本から撤退していきました。幕府は、キリスト教を広めない「安全で言うことを聞く国(オランダなど)」だけを選別して付き合う方向へシフトしていったのです。
幕府が貿易とキリスト教への弾圧を極限まで強めていく中、九州地方ではキリスト教徒や重い税金に苦しむ農民たちの不満が爆発寸前まで膨れ上がっていました。奉書船制度によって貿易の利益が断たれた地域は経済的にも大打撃を受けます。この数年後に勃発する日本最大の一揆「島原・天草一揆」の巨大なマグマは、こうした幕府の極端な締め付けや経済的な困窮の中で、着々と生み出されていった悲劇の裏側でもありました。
1631年の奉書船制度は、あくまで幕府の計画の第一歩に過ぎませんでした。これ以降、幕府は「鎖国令(さこくれい)」と呼ばれる厳しい法律を立て続けに発表します。1633年には奉書船以外の渡航を全面禁止し、1635年にはついに日本人の海外渡航と帰国を完全に禁止してしまいます。段階的にルールを厳しくしていくことで、反発を抑えながら確実に国を閉ざす完璧なスケジュールだったのです。
自由に世界へ羽ばたいていた日本の船を止め、一部の特権商人だけに許可を絞り込んだこの奉書船制度は、幕府が完全に貿易をコントロールする「鎖国」という巨大な防壁を築くための、歴史の決定的な分岐点でした。外国との豊かな交流を犠牲にしてでも、日本国内の絶対的な安定と平和を最優先して守り抜くという、江戸幕府の強い決意と冷徹な政治的計算がこの制度に色濃く表れているのです。