1560年、駿河・遠江・三河(現在の静岡・愛知東部)を支配する最強の大大名・今川義元が、約2万5千という圧倒的な大軍を率いて尾張(愛知県西部)へ侵攻してきました。迎え撃つ尾張のリーダーは、まだ20代の若き織田信長。しかし、信長が集められた兵力はわずか3千ほど。「このままでは確実に尾張は滅ぼされる…」家臣たちは絶望とパニックに陥りました。
今川の大軍を前に、織田家の家臣たちは「城に立てこもって戦おう(籠城)」と主張します。しかし、若い頃から派手な格好をして周囲から「大うつけ(大馬鹿者)」と呼ばれていた信長は、なんと作戦会議の途中で居眠りを始めてしまいます!さらに「籠城なんて無駄だ!」と言い放ち、作戦もロクに伝えないまま、たった一人で突如出陣してしまったのです。家臣たちは慌てて後を追いました。
信長は出陣する直前、ある幸若舞(こうわかまい)を舞ったと伝えられています。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」。これは「人間の寿命などたった50年。天の世界の長さに比べれば、夢や幻のように儚いものだ」という意味です。強大な今川軍を前に、信長は死を覚悟し、一か八かの大勝負に自分の人生のすべてを懸ける決意を固めていたのです。
一方、圧倒的な兵力で進軍する今川義元は余裕たっぷりで、金色の立派な輿(こし=人が担ぐ乗り物)に乗って移動していました。今川軍の先鋒を務めていたのは、のちに徳川家康となる若き日の松平元康(まつだいらもとやす)。元康らの大活躍もあり、今川軍は織田方の砦を次々とあっさり落としていきます。連勝続きの今川陣営はすっかり気を良くし、お祝いムードに包まれていました。
5月19日の午後、気分良く進軍していた今川義元の本陣(大将のいる場所)は、桶狭間(おけはざま)という小高い山や谷が入り組んだ場所で休憩をとることにしました。「昼食をとって、一息つこう」と完全に油断しきっていた今川軍。しかし大軍であるがゆえに兵士たちは狭い土地に細長く伸びきってしまい、義元の周りにはわずかな護衛しか残っていない無防備な状態になっていたのです。
その時、突然空が暗くなり、バケツをひっくり返したような激しい雷雨が降り始めました。視界は真っ白になり、雨音で足音もかき消されます。この天候の急変を信長は見逃しませんでした。「今だ!雨に紛れて一気に義元の本陣へ突撃するぞ!」。少人数で大軍に勝つための唯一の作戦、敵の総大将の首だけを一点突破で狙う決死の奇襲(きしゅう)攻撃が始まったのです。
雷雨が止んだ瞬間、信長率いる織田軍の精鋭たちが、今川義元の本陣へ雪崩のように突き込みました。完全に油断して休憩していた今川軍は大パニック!「敵襲!敵襲!」と叫びますが、細長く伸びきった大軍はすぐには助けに戻れません。たった数千の織田軍が、2万5千の今川軍の中心(義元がいる場所)だけをピンポイントでメチャクチャに切り裂いていったのです。
護衛の兵が次々と倒れる中、ついに織田軍の兵士たちが総大将・今川義元の前に立ちはだかりました。義元も名刀を抜いて必死に抵抗し、織田の兵士の指を噛みちぎるほどの激しい格闘になりますが、ついに討ち取られてしまいます。東海道で最強を誇った大大名が、名もなき若武者に首を獲られるという、日本史に残る大番狂わせが起きた瞬間でした。
総大将の義元が討たれたという知らせは、今川の大軍を一瞬で崩壊させました。パニックになった今川軍は散り散りに逃げ帰り、強大な権力を誇った今川氏は一気に没落への道を辿ります。一方、奇跡的な勝利を収めた織田信長は「海道一の弓取り」を倒した男として日本中にその名を轟かせ、一躍、戦国時代のトップスターへと駆け上がったのです。
この戦いは、もう一人の英雄の運命も大きく変えました。今川家の人質としてこき使われていた松平元康(のちの徳川家康)です。今川軍が敗走するドサクサに紛れて、元康は自分の故郷である岡崎城へ帰り、ついに独立を果たしました。その後、元康はかつての敵である信長と清洲同盟(きよすどうめい)を結びます。桶狭間の戦いは、天下を動かす二人の英雄がタッグを組む伝説の始まりでもあったのです。