663年、日本は朝鮮半島での「白村江の戦い」で唐と新羅の連合軍に大敗北しました。「このままでは巨大帝国・唐の大軍が日本に攻めてくる!」。当時の指導者であった中大兄皇子(のちの天智天皇)は、国家存亡の危機に立たされます。外国の侵略から国を守るためには、豪族たちがバラバラに土地を支配している状態を改め、天皇を中心とした強くまとまった国を作る必要がありました。
防衛力を高めるため、中大兄皇子は海から攻められやすい飛鳥を捨て、内陸の近江国(現在の滋賀県)へと都を移しました。これが「近江大津宮(おうみおおつのみや)」です。故郷を離れることになった貴族や民衆からは強い不満の声が上がりましたが、彼は強引に遷都を断行しました。そして668年、中大兄皇子はついに天智天皇として即位し、本格的な国家大改造のプロジェクトをスタートさせます。
強い国を作るためには、全国民が従う共通の「ルール(法律)」が絶対に必要でした。当時の日本には、昔からの慣習や豪族ごとの決まりしかなく、国全体を動かす統一された法律が存在しなかったのです。唐のような世界最強の帝国に対抗するためには、唐の優れた法律システムを真似て、日本独自の法律を急いで作る必要がありました。こうして、日本初の法典編纂という大事業が動き出します。
法律作成のリーダーに任命されたのは、天智天皇の最大の盟友である中臣鎌足(なかとみのかまたり)でした。彼は「乙巳の変(大化の改新)」の時からずっと天皇を支え続けてきた天才政治家です。鎌足は、優秀な学者たちを集め、唐の法律を必死に研究しながら、日本の実情に合わせた新しいルールの作成に没頭します。君臣一体となったこの取り組みは、日本の歴史において非常に重要な意味を持っていました。
668年、ついに全22巻に及ぶ日本初の法典「近江令(おうみりょう)」が完成したとされています。「律」が犯罪を罰する刑法であるのに対し、「令」は政治の仕組みや役所のルールなどを定めた行政法や民法にあたります。つまり、近江令は「国をどうやって運営していくか」という国家のシステムそのものを文章で定めた画期的なものでした。これにより、天皇中心の政治基盤が整えられていきます。
しかし、近江令が制定された翌年の669年、大事業を成し遂げた中臣鎌足は重い病に倒れてしまいます。天智天皇は自ら鎌足の家に見舞いに行き、彼の長年の功績を讃えて最高の位と「藤原(ふじわら)」という新しい名字を与えました。これが、後に平安時代の政治を独占することになる藤原氏の始まりです。鎌足は新しい法律の運用を天皇に託し、静かにこの世を去りました。
実は、この「近江令」には歴史上の大きな謎があります。当時の歴史書である『日本書紀』には近江令を作ったという記録が一切なく、後世の書物にしか名前が出てこないのです。さらに、近江令の現物(巻物など)も全く発見されていません。そのため、現代の歴史学者の間では「近江令は本当に存在したのか、それとも幻だったのか」という激しい論争が今でも続いており、歴史のミステリーとなっています。
現物がなくても、近江令が存在したと考える学者はたくさんいます。なぜなら、この時代に作られた別の古い資料の中に、それまでの日本にはなかった新しい役所の名前や、新しいルールの痕跡がポツポツと見つかっているからです。「ルールブックの現物はないけれど、新しいルールで社会が動いていた証拠はある」。この状況から、完璧ではないにせよ、何らかの基本法がこの時期に施行されたと考えられています。
近江令の制定で国家の基礎を固めた天智天皇でしたが、671年に病死してしまいます。彼の強引な政治に不満を持っていた豪族たちの怒りがここで爆発し、次の天皇の座を巡って「壬申の乱(じんしんのらん)」という古代最大の内乱が勃発しました。この戦いで近江大津宮は完全に焼け落ちてしまい、せっかく作られた近江令の記録や役所の資料も、この炎の中で多くが失われてしまったと考えられています。
壬申の乱を経て、幻となった近江令ですが、その精神は決して消えませんでした。のちに天武天皇が「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を作り、さらに701年に本格的な「大宝律令」が完成します。天智天皇と鎌足が「法律で国をまとめる」という高い理想を掲げて近江令に挑んだことは、日本が法治国家である律令国家へと成長していくための、歴史の決定的な分岐点となったのです。