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平安時代(初期) へいあんじだい(しょき)

🕒 794年 〜 899年
📍 場所: 京都府 平安京 👤 関連: 桓武天皇,坂上田村麻呂,最澄,空海,藤原良房,藤原基経,菅原道真
794年、桓武天皇が都を京都の平安京に移してから約400年続く平安時代の最初の約100年間です。「鳴くよ(794)ウグイス平安京」の語呂合わせでおなじみですね。この時期は、天皇が自ら政治を引っ張り、東北地方の蝦夷(えみし)を平定したり、最澄空海が新しい仏教(天台宗・真言宗)を広めたりと、エネルギーに満ち溢れていました。しかし後半になると、天皇の親戚となった藤原氏が政治の実権を握る「摂関政治」の土台が作られ、さらには遣唐使の廃止によって日本独自の文化へと向かう準備が整っていく激動の時代です。
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さよなら奈良!鳴くよウグイス平安京

奈良時代の後半、お坊さんたちが政治に口出しして権力を握るようになり、都はドロドロの権力争いで大混乱していました。これに嫌気がさした桓武天皇(かんむてんのう)は、「よし、お坊さんたちの影響が届かない新しい場所で、天皇中心のクリーンな政治をやり直すぞ!」と決意します。こうして794年、山と川に囲まれた美しい京都の地に平安京(へいあんきょう)を造り、お引っ越しをしました。「平安(平和で安らか)」という名前には、天皇の切実な願いが込められていたのです。
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東北地方を平定せよ!征夷大将軍の誕生

桓武天皇のもう一つの大きな目標が、東北地方に住む「蝦夷(えみし)」と呼ばれていた人々を国の支配下に置くことでした。朝廷は何度も大軍を送りますが、蝦夷のリーダー・阿弖流為(アテルイ)のゲリラ戦法に大苦戦!そこで天皇は、弓矢や馬の天才である坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を、蝦夷を討伐するための特別リーダーである征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命しました。のちに幕府のトップの称号となるこの役職は、もともとは東北地方で戦うための期間限定の司令官だったのです。
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敵同士の絆!田村麻呂とアテルイの涙

征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、強さだけでなく優しさも兼ね備えた名将でした。真正面からぶつかり合った末、アテルイは「この男になら降伏してもいい」と田村麻呂を信じて降伏します。田村麻呂もアテルイの強さと人柄に惚れ込み、「彼らの命だけは助けて、東北をまとめるために協力させましょう!」と朝廷に必死にお願いしました。しかし、貴族たちは「反乱のリーダーを生かしておくなんて危険すぎる」と猛反対。アテルイは処刑されてしまい、田村麻呂は親友となった敵の死に大粒の涙を流したと伝えられています。
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唐へ渡った二人のスーパースター

平安時代の初め、日本の仏教を大きく変える二人の天才が登場します。最澄(さいちょう)と空海(くうかい)です。二人は804年の遣唐使船に乗り、世界最先端の国・唐(中国)へ留学しました。最澄は国のエリート留学生として、空海は名もなき私費留学生としての出発でした。過酷な船旅を生き抜き、中国で最新の仏教をマスターして帰国した二人は、平安京の貴族たちの心を鷲掴みにし、やがて日本の宗教界を二分する巨大な二大宗派を築き上げることになります。
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最澄の「天台宗」と厳しい修行の山

唐から帰国した最澄は、京都の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を拠点にして天台宗(てんだいしゅう)という新しい仏教を開きました。「すべての人は平等に仏になれる!」という教えを広め、比叡山は日本の仏教の最高学府(トップの大学)へと成長します。のちに浄土宗や日蓮宗などを開くことになる鎌倉時代の有名なお坊さんたちは、みーんなこの比叡山で厳しい修行を積んだエリートたちでした。比叡山はまさに、日本仏教の「スーパーマザー」のような存在になったのです。
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空海の「真言宗」とミステリアスな魔法

一方、天才的な頭脳を持つ空海は、和歌山県の高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)を拠点に真言宗(しんごんしゅう)を開きました。彼が中国から持ち帰ったのは、呪文(真言)を唱えたり、不思議なポーズ(印)をとったりして仏と一体になる「密教(みっきょう)」という超ミステリアスな教えです。「加持祈祷(かじきとう)」というお祈りの力で、病気を治したり雨を降らせたりできるとされた密教は、不思議な力にすがりたい平安貴族たちの間で爆発的な大ブームを巻き起こしました。
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天皇の親戚作戦!藤原氏の恐るべき野望

平安時代の政治を語る上で欠かせないのが藤原氏(特に藤原北家)の存在です。大化の改新で活躍した中臣鎌足の子孫である彼らは、「権力を握るための最強の裏ワザ」を思いつきます。それは、自分の娘を天皇のお妃(奥さん)にして、産まれた男の子を次の天皇にすること!そうすれば、自分は天皇の「おじいちゃん」になり、家族として政治に口出しできるという完璧な作戦です。藤原冬嗣や良房(よしふさ)らは、この作戦でライバル貴族を次々と罠にはめて追い落とし、権力のトップへと登り詰めていきました。
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天皇の代わり!?「摂政」と「関白」の誕生

藤原氏の権力作戦はエスカレートします。858年、藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、わずか9歳の幼い天皇を即位させ、天皇が子供のうちは代わりに政治を行う摂政(せっしょう)という役職に就きました。皇族以外のただの家臣が摂政になったのは日本で初めてのことです。さらに良房の甥・藤原基経(ふじわらのもとつね)は、天皇が大人になった後も政治を補佐する関白(かんぱく)という役職を作って就任。この「摂政」と「関白」を独占する摂関政治が、平安時代の政治の基本スタイルとなりました。
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学者の家から大出世!天才・菅原道真

藤原氏がやりたい放題の朝廷で、一人の異例な人物が政治のトップに大抜擢されます。それが天才学者・菅原道真(すがわらのみちざね)です。当時の宇多天皇は「藤原氏のパワーが強すぎる…学者出身の真面目な道真を右大臣にして、藤原氏の勢いをストップさせよう!」と考えたのです。学者の家系から国のナンバー2にまで大出世した道真の登場に、藤原氏たちは「生意気なヤツだ!」と激しく嫉妬し、のちに道真を悲劇の運命へと追いやっていくことになります。
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白紙に戻そう!遣唐使のストップ

894年、大出世した菅原道真は、天皇から「お前、遣唐使のリーダーとして中国へ行ってこい」と命じられます。しかし道真は「今の唐は内乱でボロボロで危険です。しかも日本独自の文化も育ってきたので、命がけで海を渡る意味はもうありません!」とキッパリと進言しました。この「白紙(894)に戻そう遣唐使」の提案により、長年続いた遣唐使は廃止(停止)されました。これをきっかけに、日本は中国の真似を卒業し、ひらがなや源氏物語など、日本独自の「国風文化」を華やかに花咲かせていくことになります。
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