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江戸時代中期、5代将軍・徳川綱吉は仏教の教えから、極端な動物愛護の法律である生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)を出しました。特に綱吉が戌(いぬ)年生まれだったため犬が保護され、江戸の町に巨大な犬小屋が作られるほど!犬をいじめただけで島流しになるなど、人々は「お犬様」に怯えて暮らしました。本来は人々を優しくするための法律でしたが、やりすぎたせいで庶民には大不評の迷惑なルールとなってしまったのです。
平和な時代が続くと、大阪や京都の商人(町人)たちがお金持ちになり、活気あふれる元禄文化(げんろくぶんか)が生まれました。浮世草子で町人のリアルな生活を描いた井原西鶴(いはらさいかく)や、人形浄瑠璃(劇)で男女の悲しい恋の物語を描いて人々を大号泣させた近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が大活躍!さらに松尾芭蕉(まつおばしょう)が『奥の細道』で俳句を芸術の域に高めました。武士より町人が文化の主役になったのです。
1702年、江戸の町を揺るがす大事件が起きました。主君の仇を討つため、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)率いる47人の赤穂浪士(あこうろうし)が、雪の降る夜に吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷に討ち入った赤穂事件です。幕府のルールを破る犯罪でしたが、「主君への忠義を尽くした立派な武士だ!」と庶民は大熱狂しました。この事件は後に『仮名手本忠臣蔵』としてお芝居になり、今でも年末の定番ドラマとして日本人に愛され続けています。
綱吉の死後、幕府はお金が足りなくて大ピンチに!そこで6代・7代将軍をサポートしたのが、天才儒学者の新井白石(あらいはくせき)です。彼は正徳の治(しょうとくのち)と呼ばれる政治改革を行いました。金の質を落として増やしていたダメなお金を、昔の質の高いお金に戻して物価を安定させようと奮闘!また、長崎での外国との貿易を制限して、日本の貴重な金や銀が海外に流出するのをストップさせるなど、学者の知識をフル活用して国を立て直そうとしました。
幕府の財政難が深刻になる中、和歌山(紀州藩)から8代将軍に抜擢されたのが徳川吉宗(とくがわよしむね)です。彼は「質素倹約!」と自ら木綿の服を着て、幕府の無駄遣いを徹底的にカット。さらに、新田開発を進めてお米の収穫量を増やす大改革享保の改革(きょうほうのかいかく)をスタートさせました。お米の値段に一喜一憂し、経済をコントロールしようと奔走したため、人々から「米将軍」と呼ばれるほど、熱心で行動力あふれるリーダーでした。
吉宗の素晴らしいところは、身分が低い庶民の意見も直接聞こうとした点です。江戸城の前に目安箱(めやすばこ)という投書箱を設置し、「政治への不満やアイデアがあれば何でも入れなさい。鍵は私が自分で開ける!」と宣言しました。この箱に寄せられた意見から、貧しい人々のための無料の病院である小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)が作られたり、火事を防ぐための消防団(町火消)が組織されたりしました。画期的なアンケートシステムの誕生です。
当時、裁判の基準がバラバラで「担当する役人の気分で判決が変わる」という不公平な状況でした。これに怒った吉宗は、過去の判例(裁判の記録)を徹底的に集めて整理させ、1742年に公事方御定書(くじかたおさだめがき)という法律のルールブックを完成させました。これにより、「この犯罪にはこの罰」という基準がハッキリし、全国の奉行(裁判官)が公平でスピーディーな裁判を行えるようになりました。武士の世の法律をアップデートした大偉業です。
江戸時代中期になると、オランダ語を通じて西洋の進んだ学問を学ぶ蘭学(らんがく)がブームになります。1774年、医者の杉田玄白(すぎたげんぱく)や前野良沢らは、罪人の解剖を見学して「オランダの医学書(ターヘル・アナトミア)に描かれている内臓の図は完璧だ!」と大衝撃を受けました。彼らは辞書もない中で苦労してこれを翻訳し、『解体新書(かいたいしんしょ)』という医学書を出版しました。ここから日本の西洋医学が劇的に進化していくのです。
蘭学が流行する一方で、「中国やヨーロッパの考え方ではなく、日本独自の古き良き精神を取り戻そう!」という学問も盛り上がりました。これを国学(こくがく)と呼びます。大成者である本居宣長(もとおりのりなが)は、約35年もの歳月をかけて『古事記』を研究し、『古事記伝』という本を書き上げました。武士の「理屈っぽさ」ではなく、ありのままの感情(もののあわれ)を大切にするこの学問は、のちの幕末の武士たちに大きな影響を与えました。
吉宗の死後、10代将軍の時代に政治の実権を握ったのが田沼意次(たぬまおきつぐ)です。彼は「農業の税金(お米)だけじゃ国は豊かにならない。これからは商業だ!」と、商人たちがグループを作る株仲間(かぶなかま)を積極的に認めて税金(運上・冥加)を納めさせました。長崎貿易も拡大して経済は活気づきましたが、商人が役人にお金を贈る「ワイロ」が横行してしまい、政治が腐敗。浅間山の大噴火や飢饉も重なり、最後はクビになってしまいました。