聖徳太子が亡くなった後、政治の実権を握っていたのは蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿(そがのいるか)の親子でした。彼らは天皇を差し置いて自分たちの巨大なお墓を造らせたり、反対する聖徳太子の一族(山背大兄王)を滅ぼしたりと、やりたい放題に権力を振るっていました。「このままでは国が蘇我氏に乗っ取られてしまう!」と、天皇を中心とした政治を取り戻したい若者たちは強い危機感を抱き、密かに蘇我氏を倒す計画を練り始めます。
蘇我氏を倒すために立ち上がったのが、皇族の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、神様にお祈りをする一族の中臣鎌足(なかとみのかまたり)でした。二人は飛鳥寺の蹴鞠(けまり)の会で偶然出会い、落とした靴を鎌足が拾ったことをきっかけに意気投合したと言われています。二人は中国の進んだ学問を学びながら、極秘にクーデターの作戦を立てました。「国を救うため、入鹿を暗殺するしかない!」最強のバディが誕生した瞬間です。
645年、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で儀式が行われている最中、事件は起きました。緊張で震える暗殺の実行犯たちを押し退け、なんと中大兄皇子自らが剣を抜いて蘇我入鹿に斬りかかったのです!入鹿は「私に何の罪があるのだ!」と天皇に叫びましたが、あえなく暗殺されました。翌日には父の蝦夷も自害し、長年権力を握っていた蘇我氏はついに滅亡。この劇的なクーデターを乙巳の変(いっしのへん)と呼びます。
クーデターを成功させた中大兄皇子たちは、すぐに天皇中心の新しい国づくりをスタートさせました。この時、「これからは新しい時代が始まるぞ!」という決意を込めて、日本で初めてとなる元号(げんごう)が作られました。それが「大化(たいか)」です。「大いなる変化」という意味を持つこの元号から、約半世紀にもわたる政治の大改革が始まります。これが、歴史の授業で必ず習う大化の改新のスタートです。
翌年のお正月、新しい政治の基本方針である「改新の詔(かいしんのみことのり)」が発表されました。その中で最も重要なのが公地公民(こうちこうみん)のルールです。それまで豪族たちが勝手に支配していた土地(私地)と人々(私民)を、すべて「天皇(国)のもの」にしたのです。豪族たちのパワーの源を奪い取り、国全体を一つのルールでまとめるという、社会の仕組みを根底からひっくり返す大改革でした。
土地と人を国のものにしたことで、画期的な税金の仕組みが生まれました。国が人々の名前や年齢を記録した戸籍(こせき)を作り、6歳以上のすべての人に平等に田んぼ(口分田)を貸し与え、そこからお米などの税金を国に納めさせる班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)です。これによって、豪族ではなく国が直接人々から税金を集めることができるようになり、天皇を中心とする強力な政府を作るための安定した収入源を確保しました。
国内の改革が進む中、日本は朝鮮半島の戦争に巻き込まれます。663年、日本は同盟国の百済(くだら)を助けるため大軍を送りますが、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で唐(中国)と新羅の連合軍に大惨敗してしまいます。「唐が攻めてくる!」と焦った中大兄皇子は、九州に水城(みずき)という巨大な防衛ラインを築き、都を内陸の近江国(滋賀県)へ移して敵の攻撃に必死に備え、国防を強化しながら国づくりを進めました。
中大兄皇子(天智天皇)の死後、身内同士の激しい内乱(壬申の乱)を勝ち抜いてトップに立ったのが天武天皇(てんむてんのう)です。彼は実力で権力を勝ち取ったため、圧倒的なパワーを持っていました。この頃から、これまで「大王(おおきみ)」と呼ばれていた国のトップを、神聖な響きを持つ天皇と呼ぶようになったとされています。豪族たちを従え、誰も逆らえない絶対的なカリスマリーダーの誕生です。
また、この頃から自分たちの国の名前を「倭(わ)」から「日本」へと変えたと考えられています。太陽が昇る場所、という意味が込められた美しい国号です。当時の超大国である唐(中国)から「野蛮な小さな国」と見下されないように、独自の素晴らしい国名と、皇帝にも負けない「天皇」という称号を持つことで、国際社会で対等に渡り合える立派な独立国家のブランドを作り上げようとしたのです。
乙巳の変から約半世紀。701年に、天武天皇の意志を継いだ持統天皇(じとうてんのう)や文武天皇のもとで、ついに大宝律令(たいほうりつりょう)が完成しました!政治のルール(令)と刑罰のルール(律)をまとめた、日本初の本格的な法律です。これにより、日本は法律に基づいて天皇が国を治める律令国家(りつりょうこっか)となりました。中大兄皇子と中臣鎌足が夢見た大化の改新は、ここでついに輝かしいゴールを迎えたのです。