1333年に鎌倉幕府が滅んだ後、新しい政治の主導権を巡って後醍醐天皇と足利尊氏が激しく対立しました。尊氏が京都に新しい天皇(北朝)を立てると、後醍醐天皇は奈良県の吉野へ逃れて別の朝廷(南朝)を開きます。こうして日本に2人の天皇が同時に存在するという前代未聞の異常事態となり、全国の武士が南北に分かれて戦う南北朝時代が始まりました。この血みどろの争いは、なんと約60年間も続くことになります。
この長きにわたる内乱に終止符を打ったのが、室町幕府の第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)です。義満は非常に頭が良く、強大な軍事力を持つ有力な守護大名たちを巧妙な罠にかけて次々と討伐し、将軍の権力を絶対的なものに高めていました。国内の武士たちを力でまとめ上げた義満は、幕府の支配体制を完璧なものにするため、最大の政治課題であった「南朝との和解(合一)」へと本格的に動き出します。
一方、吉野の山深くに立てこもっていた南朝は、有力な武将を次々と失い、かつての軍事力は見る影もなく衰退していました。義満はこの状況を冷静に分析し、「今なら武力で徹底的に滅ぼすのではなく、話し合いで南朝を降伏させることができる」と計算しました。武力で完全に滅ぼせば南朝側の強い恨みが残りますが、平和的な「和約(条約)」であれば、将軍としての寛大さを示しつつ幕府の権威をさらに高められるからです。
義満は側近の大内義弘(おおうちよしひろ)らを交渉役に命じ、南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)に対して極秘の講和交渉を持ちかけました。南朝側は「これは幕府の卑劣な罠ではないか」と強く警戒しましたが、もはや戦いを続けるための兵力もお金も残っていません。義満は、南朝の天皇としてのプライドを保ちつつ、彼らがどうしても受け入れたくなるような、非常に魅力的な「3つの条件」を提示したのです。
義満が提示した条件は以下の通りです。第一に、南朝が持っている天皇の正統な証である三種の神器を北朝へ引き渡すこと。第二に、全国にある皇室の領地を北朝と南朝で分け合うこと。第三に、今後の天皇は、北朝と南朝の血筋から交互に出すこと(これを両統迭立:りょうとうてつりつ と呼びます)。特に第三の条件は、「いずれまた南朝の血筋から天皇を出せる」という、南朝にとって最大の希望となる究極の妥協案でした。
「この条件ならば、南朝の面目も保てる」。ついに後亀山天皇は義満の提案を信じ、和解を受け入れる決断を下しました。1392年10月、後亀山天皇は長年身を隠していた吉野の山を出発し、京都へと向かいます。敵対していた北朝の都へ自ら足を踏み入れることは、事実上の敗北を認めるに等しい苦渋の決断でしたが、日本の平和と「次の天皇を出せる」という希望を胸に、歴史的な一歩を力強く踏み出したのです。
京都の大覚寺に到着した南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)の使いに対して、天皇の正統な証である三種の神器(鏡・剣・勾玉)が静かに引き渡されました。この神聖な儀式をもって、南朝は事実上解散し、北朝が日本で唯一の正統な朝廷として認められることになります。約60年間にわたって二つに割れていた天皇家が、ついに再び一つに統合された歴史的で感動的な瞬間でした。
この歴史的な条約は、当時の元号をとって明徳の和約(めいとくのわやく)と呼ばれます。これにより、日本中を長年苦しめてきた南北朝の内乱は完全な終結を迎えました。武士だけでなく、貴族や寺社、農民など全ての人々が待ち望んだ平和の到来です。将軍でありながら天皇家をも一つにまとめ上げた義満の権威は、もはや天皇すらも凌駕するほど、日本の歴史上でも類を見ない絶対的で巨大なものとなりました。
しかし、義満の提示した「天皇を交互に出す」という約束(両統迭立)は、なんと真っ赤な嘘でした。義満は最初から約束を守る気などなく、南朝が解散した後は北朝の血筋だけで天皇の位を独占し続けたのです。完全に騙された元南朝の人々は激怒し、のちに「後南朝(ごなんちょう)」として何度も悲しい反乱を起こすことになります。平和の裏に隠された、義満の冷酷で天才的なマキャベリスト(権力主義)ぶりを示す裏話です。
嘘をついてまで南北朝の合一を成し遂げた足利義満は、武家でありながら朝廷の最高職である太政大臣にまで上り詰めました。京都に豪華絢爛な金閣(鹿苑寺)を建て、日明貿易で莫大な富を築くなど、室町幕府の最盛期を現出させます。この明徳の和約は、単なる戦争の終わりではなく、室町幕府が名実ともに日本全国の絶対的な支配者としての地位を確立するための、歴史の決定的な分岐点となった大事件なのです。