1640年(寛永17年)、日本の空から太陽が消えました。初夏になっても冷たい雨が降り続き、長雨と日照不足による異常気象が全国を覆ったのです。当時の日本人の主食であり、税金でもあったお米は、暖かな日差しがないと育ちません。さらに西日本では干ばつが起き、全国の農村で「今年はお米が全く収穫できない」という絶望的な報告が次々と江戸幕府へもたらされました。これが、数万人の命を奪う寛永の大飢饉の恐ろしい幕開けでした。
異常気象だけでも致命的でしたが、悲劇はさらに続きます。西日本を中心にウンカなどの害虫が大量発生し、かろうじて育っていた稲を食い尽くしてしまったのです。さらに、農作業の重要な労働力であった牛や馬の間でも恐ろしい疫病が流行し、次々と倒れていきました。天候不良、害虫、そして家畜の死。農業を支えるすべての要素が同時に破壊され、農民たちは食べるものを完全に失い、底知れぬ飢餓地獄へと突き落とされていきました。
当時、江戸幕府のトップは第3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)でした。幕府は直前に起きた大規模な反乱である島原の乱の鎮圧に莫大なお金を使っており、さらに日光東照宮の豪華な改築や、将軍の京都への大行列などでお金が不足している状態でした。そのため、最初は全国の飢饉に対してお米やお金を配るといった十分な救済策をスピーディに行う余裕がなく、初動対応の遅れから被害はあっという間に拡大してしまったのです。
食べるものがなくなった農民たちは、草の根や木の皮まで食べて飢えをしのぎましたが、道端には餓死者が溢れかえりました。税金(年貢)を払えなくなった農民たちは、生き延びるために自分の土地を捨てて他の村や町へ逃げ出す逃散(ちょうさん)を余儀なくされました。さらに、借金を返すために自分の妻や子供を奴隷のように売り飛ばす「身売り」も激増し、日本の農村社会の仕組みそのものが完全に崩壊する危機に直面したのです。
苦しんでいたのは農民だけではありません。全国の藩を治める大名たちも深刻なダメージを受けていました。参勤交代の旅費などでただでさえ藩のお金がないところに、自分の領地の農民が全滅しかかっているのです。一部の大名はお城の蔵を開いてお米を配りましたが、それもすぐに底を突きました。農民がいなくなれば税金が取れず、藩そのものが潰れてしまいます。全国の大名たちは幕府に対して、必死に助けを求める悲痛な報告書を送り続けました。
事態の深刻さを悟った徳川家光は、ついに重い腰を上げます。幕府は、お酒やうどんを作るためにお米を無駄遣いすることを禁止し、大名たちには「自分の領地の農民を絶対に餓死させるな」と厳しく命じました。さらに、幕府の蔵から大量のお米やお金を放出して、苦しむ農民たちへ分け与える本格的な救済活動をスタートさせます。これほどの全国規模の大災害に対する幕府の救済措置は、江戸幕府が開かれて以来、初めての大きな試練でした。
幕府は、飢饉で苦しむ農民が借金のために土地を金持ちに奪われるのを防ぐ必要に迫られました。土地を失う農民が増えれば、確実に税金(年貢)を集めることができなくなるからです。そこで1643年、テストにも頻出する田畑永代売買の禁令(たはたえいたいばいばいのきんれい)という重要な法律を出しました。「農民が自分の土地を永遠に売買してはいけない」と定めたこの法律は、農民を土地に縛り付けると同時に、彼らを守る防波堤にもなりました。
さらに幕府は、農民の土地が細かく分かれすぎることも防ごうとしました。土地が小さくなれば、そこから取れるお米も減り、農民が貧乏になって餓死しやすくなるからです。そこで「一定の広さがない土地は、子供たちに分けて相続させてはいけない」というルールの端緒を開きました。これが後の分地制限令(ぶんちせいげんれい)へと繋がっていきます。幕府は飢饉を教訓に、農民の生活基盤を徹底的に管理する方向へ舵を切ったのです。
寛永の大飢饉が起きるまで、幕府の政治は「武力で大名を力で押さえつけること(武断政治)」が中心でした。しかし、この未曾有の大災害を通じて「一番大切なのは、税金を納めてくれる農民を生かさず殺さず管理することだ」と深く反省します。大名や武士を取り締まるだけでなく、本百姓(土地を持つ農民)を手厚く保護し、安定した税金を取るための農村支配のシステムを作り上げる、幕府の方針転換における決定的な契機となったのです。
1640年から約3年間にわたって日本列島を襲った寛永の大飢饉は、数万人とも言われる尊い命を奪い去りました。しかし、この絶望的な大災害が突きつけた厳しい現実により、幕府は農民を守るための様々な法律を次々と整備することになります。武力に頼るのではなく、法律と制度によって国を安定させるという政治の成熟をもたらし、その後約200年以上続く江戸時代の平和な社会基盤を作り上げるための、歴史の重要な分岐点となった出来事なのです。