1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために笠置山(京都府)で挙兵しました(元弘の乱)。しかし、幕府の圧倒的な大軍に包囲され、天皇は絶体絶命の危機に陥ります。このSOSに応えて立ち上がったのが、河内国(大阪府)の土豪であり「悪党」と呼ばれていた楠木正成(くすのきまさしげ)です。正成は勝ち目の薄い戦いであることを理解していましたが、天皇への強い忠誠心から、己の知恵と勇気だけを武器に巨大な幕府軍に立ち向かう決意を固めました。
正成が本拠地として選んだのは、金剛山のふもとにある下赤坂城でした。しかし、城とは名ばかりで、急斜面を利用して柵をめぐらせ、櫓(やぐら)を建てただけの非常に簡素で小さな砦にすぎませんでした。集まった兵力もわずか500人程度です。対する幕府軍は、笠置山を落とした勢いそのままに数万人という大軍勢で押し寄せてきました。誰もが「あんな小さな砦、一瞬で踏み潰せる」と幕府軍の圧勝を疑わず、数日で戦いは終わると思われていました。
幕府の大軍は、正成の小さな城を見下して完全に油断していました。「我先にと手柄を立てよう」と、作戦もなしに急斜面を駆け上がってきます。しかし、これこそが正成の狙いでした。城の塀に取り付いた幕府軍に対し、正成の兵たちは二重構造に作ってあった外側の塀を突然切り落とします。塀にとりついていた無数の幕府兵たちは、塀もろとも深い谷底へと真っ逆さまに転落し、一瞬にして大損害を受けたのです。見事な奇策の成功でした。
正成の奇策はこれだけではありませんでした。怒りに任せて再び斜面を登ってくる幕府軍に対し、今度は城の上から大木や巨大な石を雨あられと投げ落としました。さらに、柄の長いひしゃくを使って、煮えたぎる熱湯や熱した糞尿を敵の頭上から浴びせかけたのです。鎧を着ていても熱湯は隙間から入り込み、兵士たちは大火傷を負って逃げ惑いました。常識外れの戦術の前に、戦いに慣れたはずの関東の武士たちも完全にパニックに陥りました。
幕府軍が城の正面攻撃に手こずっている間に、正成が山の中に隠しておいた別働隊が動き出します。彼らは幕府軍の背後から突然矢を射かけたり、夜中に奇襲をかけたりして敵陣を引っかき回しました。「敵は城の中だけではないのか!」。前からも後ろからも攻撃を受ける幕府軍は疑心暗鬼に陥り、同士討ちまで始める始末でした。正成は巧みな情報戦とゲリラ戦法で、巨大な軍隊を完全に翻弄し続け、戦局を有利に進めていきました。
わずか数日で終わると思われていた戦いは、正成の奮闘によって長引くことになりました。しかし、いくら正成が天才的な戦術家であっても、根本的な兵力差はどうすることもできません。小さな赤坂城では食料や水の備蓄にも限界があり、やがて水や食べ物が底をつき始めました。幕府軍が城を遠巻きにして補給路を断つ「兵糧攻め」に切り替えたことで、正成たちは徐々に絶望的な状況へと追い詰められていきます。限界はすぐそこまで迫っていました。
1331年10月下旬、ついに城を守りきれないと悟った正成は、またしても誰も思いつかない奇策に打って出ます。城内に大きな穴を掘って戦死した味方の遺体を集め、そこに大量の薪を積んで火を放ったのです。そして、自分たちは敵の目を欺いて、夜の闇に紛れて密かに城から脱出しました。翌朝、焼け落ちた城と無数の黒焦げの遺体を見た幕府軍は、「正成はついに観念して自害したのだ」と完全に信じ込んでしまったのです。
赤坂城が落ち、後醍醐天皇も捕らえられたことで、幕府は「反乱は完全に鎮圧された」と安心しきって関東へと兵を引き上げました。しかし、正成は生きていました。彼がわずかな手勢で幕府の大軍を長期間にわたって釘付けにしたというニュースは、瞬く間に全国へと広まりました。「あの大軍を相手に互角に戦える者がいるのか!」。この事実は、幕府の圧倒的な権威に怯えていた武士たちに計り知れない勇気と希望を与えたのです。
正成の痛快な活躍は、特に近畿地方で幕府の支配に不満を持っていた「悪党」と呼ばれる武装集団や地侍たちを強く刺激しました。「俺たちも正成に続こう!」。幕府の武力が絶対ではないことを証明した赤坂城の戦いは、それまでくすぶっていた反体制派のエネルギーに火をつけました。正成というたった一人の武将の行動が、全国規模の反乱を引き起こすための、巨大な起爆剤となったのです。倒幕への流れはもう誰にも止められません。
姿をくらましていた楠木正成は、翌1332年の終わり頃に再び歴史の表舞台に現れます。彼は幕府の隙を突いて赤坂城を奪還し、さらに奥の金剛山に難攻不落の「千早城(ちはやじょう)」を築いて再び挙兵しました。この戦いで正成はさらに巨大な軍勢を100日以上も釘付けにし、その間に足利尊氏や新田義貞が立ち上がります。赤坂城での奮戦は、鎌倉幕府を滅亡へと導く、歴史の決定的な分岐点となった極めて重要な戦いでした。