1833年(天保4年)から数年間にわたって日本全国を襲った、江戸時代最大級の飢饉です。異常気象による冷害や大雨で米が全く育たず、特に東北地方で甚大な被害を出しました。全国で餓死者や病死者が続出し、数年間で日本の人口が百万人以上も減少したと言われています。各地で米を求める打ちこわしや一揆が激増し、元役人の大塩平八郎までもが反乱を起こす異常事態となりました。幕府の権威が大きく揺らぎ、天保の改革へと向かう歴史の決定的な契機となった大災害です。
1833年、日本列島を異常な寒波が襲いました。夏になっても気温が上がらず、特に東北地方では「やませ」と呼ばれる冷たい風が吹き荒れました。太陽の光が遮られて大雨や洪水も発生し、当時の人々の主食であり税金でもあった米が全く育たないという大凶作に陥ります。これが、江戸の四大飢饉の一つに数えられる天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)の恐ろしい始まりでした。ここから数年間、日本中が飢餓という地獄に突き落とされます。
凶作は1年で終わらず、翌年もその翌年も続きました。米の値段は信じられないほど跳ね上がり、貧しい農民や町人たちは食べるものが完全に底をつきます。草の根や木の皮、犬や猫まで食べ尽くし、ついには餓死する人々が道端に溢れかえりました。さらに、栄養失調で免疫力が落ちた人々の間で疫病(伝染病)が大流行します。飢えと病によって、この数年間で日本の人口が約125万人も減少したと言われるほどの未曾有の惨状となりました。
中でも最も被害が深刻だったのが、陸奥国や出羽国(現在の東北地方)です。もともと寒さに弱い品種の米を育てていたため、被害が直撃しました。仙台藩などでは、あまりの飢えに耐えかねて家族を身売りしたり、生きるために逃げ出したりする人が続出しました。藩の人口の約2割から3割が失われた地域もあるほどで、村々はゴーストタウンのように荒れ果てました。東北地方は、まさに死の影にすっぽりと覆われてしまったのです。
人々が次々と餓死していく中、一部の裕福な商人たちは米を買い占め、倉庫に隠して値段をさらに吊り上げて大儲けをしていました。自分たちだけが生き残り、貧しい者を見殺しにする悪徳商人に対し、民衆の怒りがついに爆発します。「米を出せ!」と激怒した民衆が徒党を組み、商人たちの家や倉庫を破壊して米を奪い取る打ちこわしが全国各地の町で頻発しました。幕府や藩の取り締まりも追いつかないほど、社会の秩序は崩壊していきました。
江戸幕府も飢饉への対策を行わなかったわけではありません。困っている人々に「お救い米」を配るなどの支援を行いましたが、全国規模の災害の前には全く足りませんでした。それどころか、幕府は江戸の町を優先して守るため、被害が深刻な地方の藩に対して「江戸へ米を送れ」と命令を出したのです。地方の人々を見捨てるようなこの幕府の冷酷な対応は、農民や地方の武士たちの間に「幕府は頼りにならない」という強い不満を植え付けました。
「天下の台所」と呼ばれ、日本中の米が集まるはずの大坂(大阪)でも餓死者が続出していました。大坂の元役人であった大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、私財を投げ打って人々を救おうとしますが限界があり、大坂の役人に「江戸へ送る米を民衆に回してくれ」と必死に頼み込みました。しかし、役人は冷酷にもこれを拒否します。目の前で苦しむ人々を見捨てる幕府の腐敗しきった姿に、平八郎はついに武力で立ち上がる決意を固めたのです。
1837年、平八郎は門下生や農民たちを率いて「苦しむ民衆を救え!」と大坂の町で反乱を起こしました。これが歴史のテストに出る大塩平八郎の乱です。幕府の元役人であり、立派な儒学者でもあった人物が幕府に真っ向から牙を剥いたというニュースは、日本中に凄まじい衝撃を与えました。反乱自体はわずか1日で鎮圧され、平八郎も隠れ家で自害しますが、幕府の権威が完全に地に落ちたことを象徴する、歴史の重大な転換点となる事件でした。
大塩平八郎の決起は、全国の不満分子に大きな勇気を与えました。大坂の反乱からわずか数ヶ月後、越後国(新潟県)の柏崎でも、平八郎の教えに共感した国学者の生田万(いくたたよろ)という人物が、飢餓に苦しむ農民を救うために役所を襲撃する事件を起こします(生田万の乱)。地方の知識人たちまでもが次々と幕府に反旗を翻し始めたことは、江戸幕府の支配システムが限界に達し、社会全体が崩壊の危機にあることを明確に示していました。
幕府の政治が当てにならない中、地方では自らの知恵と努力で村を立て直そうとする偉人たちも登場しました。「二宮金次郎」として有名な二宮尊徳(にのみやそんとく)は、独自の農業技術や経済の知識(報徳仕法)を使って、飢饉で荒れ果てた関東の村々を次々と復興させました。幕府という巨大な組織が機能不全に陥る一方で、こうした民間の優秀なリーダーたちが地域の絆を守り抜き、日本の社会を根底で支えようと必死に奮闘していたのです。
天保の大飢饉とそれに続く内乱の数々は、江戸幕府に強烈な危機感を与えました。このボロボロになった国を立て直すため、老中・水野忠邦(みずのただくに)は天保の改革と呼ばれる厳しい政治改革をスタートさせます。しかし、時代遅れの強引な政策は人々の激しい反発を招き、改革はあっけなく失敗に終わりました。大飢饉が生み出した社会の歪みは、幕府の寿命を確実に縮め、日本を激動の「幕末」へと押し流す歴史の決定的な契機となったのです。