1830年代、日本列島は異常気象(冷害や大雨)に見舞われ、お米などの農作物が全く育たなくなりました。これが天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)です。全国でお米が足りなくなり、値段は何倍にも跳ね上がりました。食べ物を買えなくなった貧しい人々は、草や木の根を食べて飢えをしのぎ、道端には餓死した人々の死体が転がるという、まさに生き地獄のような状態になっていました。
庶民が次々と餓死しているというのに、大坂の町奉行(警察と市役所のトップ)や一部の特権商人は、自分たちの利益しか考えていませんでした。商人たちは蔵にたくさんのお米を隠し持ち、値段がさらに上がるのを待つ「買い占め」を行っていました。さらに奉行所は、新将軍・徳川家慶のお祝いのために、大坂の少ないお米を無理やり江戸へ送るという、庶民を完全に無視した政治を行っていたのです。
この惨状に誰よりも心を痛めていたのが、大塩平八郎です。彼は大坂町奉行所の元「与力(よりき=上級警察官)」で、現役時代は数々の難事件を解決した超エリートの名刑事でした。引退後は儒学(陽明学)の先生として多くの弟子に慕われていました。大塩は「このままでは大坂の町が全滅する!」と、元上司である奉行所に「商人の米を庶民に配ってくれ」と何度も必死のお願い(直訴)をしました。
しかし、奉行所は大塩の必死の訴えを「お前はもう関係ないだろ」と冷酷に無視しました。激怒した大塩は「役人が助けないなら、私が助ける!」と決意。自分が大切に集めていた5万冊もの本(蔵書)など、全財産を売り払ってお金を作りました。そして、そのお金で貧しい人々に直接お米やお金を配って回ったのです。しかし、個人の力ではどうにもならないほど、飢饉の被害は絶望的でした。
「もう武力で腐った役人と商人を打ち倒し、米を奪って配るしかない!」1837年2月19日、ついに大塩は弟子や農民たち約300人を率いて立ち上がります。「救民(きゅうみん)」と書かれた旗を掲げ、大砲や火縄銃を撃ち鳴らしながら、お米を隠し持つ悪徳商人の家(豪商・鴻池など)を次々と襲撃し、火を放ちました。火の粉は強風にあおられ、大坂の町の約5分の1が灰になる大火災へと発展します。
大塩たちは「正義の戦い」だと信じていましたが、事前に計画が幕府側に漏れていたこともあり、反乱はうまくいきませんでした。すぐに幕府の正規軍(大砲部隊)が出動して激しい市街戦となり、大塩の部隊はわずか半日でボロボロに崩壊してしまいます。大塩は逃亡して約40日間も隠れ家に潜伏しましたが、最後は役人に囲まれ、隠れ家に火を放って爆薬で自害するという壮絶な最期を遂げました。
反乱自体はすぐに失敗しましたが、この事件が江戸幕府に与えたダメージは計り知れません。農民が起こす「一揆(いっき)」はよくありましたが、幕府の「元・超エリート役人」が幕府に牙を剥いたのは前代未聞の大事件だったからです。「幕府の政治は、身内から見てもそこまで腐っているのか!」という衝撃のニュースは、手紙などのネットワークを通じてあっという間に日本中の武士や庶民に知れ渡りました。
大塩平八郎の乱に勇気をもらった人々は、「俺たちも大塩先生に続け!」と全国各地で次々と反乱を起こし始めました。越後国(新潟県)の生田万(いくたよろず)の乱などが有名です。幕府の権威が大きく揺らぎ、「幕府のやり方はおかしいのでは?」と疑う空気が日本中に広がりました。この事件は、約30年後にやってくる「幕府の滅亡(幕末)」を予感させる、歴史のドミノ倒しの重要なキッカケとなったのです。