1180年、平清盛が率いる平氏一族が権力を独占する中、不満を持った後白河法皇の息子である以仁王(もちひとおう)が「全国の源氏よ、平氏を討て!」という命令書(令旨)を出しました。伊豆に流罪となり、20年間もひっそりと監視生活を送っていた源頼朝のもとにもこの知らせが届きます。頼朝は最初は慎重でしたが、妻の政子や義父の北条時政らに背中を押され、ついに平氏打倒の兵を挙げる決意を固めました。
頼朝の軍勢はまず、伊豆の平氏側の役人を討ち取ることに成功します。しかし、頼朝の味方についた武士はわずか300騎ほどしかいませんでした。そこで頼朝は、相模国(現在の神奈川県)の強力な武士団である三浦一族と合流して軍を大きくするため、伊豆を出発して東へと進軍します。そして、相模の海を見下ろす険しい地形の石橋山(いしばしやま:現在の神奈川県小田原市)に陣を敷き、味方の到着を待つことにしました。
しかし、頼朝の動きをいち早く察知した平氏方の武将・大庭景親(おおばかげちか)が、頼朝の行く手を遮るように立ちはだかりました。大庭軍の数はなんと約3000騎。頼朝軍の10倍という圧倒的な大軍でした。さらに、頼朝が合流を頼みにしていた三浦一族は、悪天候で川が増水してしまい、川を渡れず足止めを食らっていました。頼朝は味方の援軍が来ないまま、絶望的な兵力差で大庭の大軍と対峙することになってしまったのです。
1180年8月23日の夜、運悪く激しい暴風雨が吹き荒れる中、石橋山の戦いの火蓋が切られました。大庭景親は嵐に乗じて頼朝軍の陣地に夜襲を仕掛けます。10倍の敵に暗闇と豪雨の中で襲われ、頼朝の軍勢は大混乱に陥りました。武勇に優れた武士たちが必死に戦って頼朝を守りましたが、多勢に無勢で次々と討ち死にしていきます。頼朝軍は完全にバラバラに打ち砕かれ、頼朝はわずかな側近たちと共に真っ暗な山の中へと逃げ込みました。
山へ逃げ込んだ頼朝の命を狙い、大庭軍は山狩りを始めます。頼朝は「しとどの窟(いわや)」と呼ばれる、大きな倒木の下にできた空洞に身を隠しました。息を殺して震える頼朝たちのすぐそばまで、大庭軍の追っ手が迫ってきます。「これまでか…」と頼朝が死を覚悟したその時、追っ手の一人である梶原景時(かじわらかげとき)が、頼朝が隠れている洞窟の中を覗き込みました。両者の視線が完全に交錯した、まさに絶体絶命の瞬間でした。
しかし、頼朝と目が合った梶原景時は、なんと「ここには誰もいないぞ!向こうの山が怪しい!」と大声で嘘をつき、味方の兵士たちを別の場所へ誘導したのです。景時がなぜ敵の大将である頼朝を見逃したのか、その本当の理由は分かっていません。しかし、この景時の機転によって頼朝は奇跡的に命を救われました。もしここで景時が「頼朝を見つけた!」と叫んでいれば、のちの鎌倉幕府が誕生することは絶対にありませんでした。
九死に一生を得た頼朝は、数日かけて山の中を逃げ回り、真鶴半島(まなづるはんとう)の海岸へとたどり着きました。あらかじめ手配しておいた小さな小船に乗り込み、海を渡って対岸の安房国(あわのくに:現在の千葉県南部)へと逃れることに成功します。わずかな家臣たちと共にボロボロになって船に揺られながら、頼朝は「必ず東国の武士たちをまとめ上げ、平氏を倒して天下を取る」と、静かに再起の誓いを立てたのでした。
千葉県の海岸に上陸した頼朝のもとに、次々と奇跡が起きます。大敗の知らせを聞いても頼朝を見捨てなかった千葉常胤(ちばつねたね)や上総広常(かずさひろつね)といった、房総半島の超強力な武士団が「頼朝様をお守りする!」と続々と味方についたのです。彼らは平氏の傲慢な政治に強い不満を抱いており、源氏の御曹司である頼朝を自分たちのリーダーとして担ぎ上げました。数人の逃亡者だった頼朝の軍勢は、数万の大軍へと膨れ上がります。
大軍団の総大将へと劇的な復活を遂げた頼朝は、海沿いを進軍して武士の都となる鎌倉(かまくら)へと入りました。勢いに乗る頼朝軍の前に、かつて石橋山で頼朝を追い詰めた大庭景親はなす術もなく降伏し、のちに処刑されます。一方、洞窟で命を救ってくれた梶原景時は頼朝に深く感謝され、鎌倉幕府の超優秀な側近として大出世を果たすことになります。わずか数ヶ月の間に、敗者と勝者の運命が完全に逆転したのです。
石橋山の戦いそのものは、源頼朝の生涯で最も悲惨な「大敗北」でした。しかし、この敗北によって海を渡って千葉へと逃れたことが、結果的に東国の最強武士団を味方につける決定的な契機となりました。もし石橋山で中途半端に勝っていれば、頼朝は小さな勢力のまま平氏の大軍に潰されていたかもしれません。一度完全に負けて死の淵を見たからこそ、頼朝は天下人への道を切り開くことができた、歴史の大きな分岐点となる戦いだったのです。