1180年、打倒平家の令旨(命令書)を受けて伊豆で挙兵した源頼朝でしたが、最初の本格的な戦闘である「石橋山の戦い」で平家方の大軍に惨敗してしまいます。頼朝の軍勢は散り散りになり、彼自身も山中の洞窟(しとどの窟)に隠れ、敵の追手である梶原景時らに見逃してもらって間一髪で命拾いするという絶体絶命のピンチを味わいました。誇り高き源氏の御曹司にとって、死と隣り合わせのどん底からのスタートだったのです。
1180年8月、陸路での逃亡は不可能と悟った頼朝は、相模国(神奈川県)の真鶴岬から小さな船に乗り込み、荒れ狂う海を渡って対岸の安房国(あわのくに:現在の千葉県南部)へと逃れました。激しい嵐の中を付き従った家臣は、北条義時らわずか数名だったと言われています。命からがら竜島(千葉県安房郡鋸南町・安房勝山)に上陸した頼朝は、敗北の絶望に打ちひしがれることなく、この見知らぬ土地から再び兵を集めて立ち上がるという不屈の決意を固めました。
兵力はゼロに等しい頼朝でしたが、彼には「源頼朝」という最強のブランド(血筋)がありました。当時の関東地方(坂東)の武士たちは、自分たちの土地を奪おうとする京都の平家や、傲慢な国司(朝廷から派遣された役人)の政治に強い不満と怒りを持っていました。「かつて関東を支配した偉大な源氏の血を引く頼朝様なら、我々をまとめて平家の横暴から守ってくれるはずだ」という、彼への強い期待が渦巻いていたのです。
1180年9月、頼朝が安房に上陸すると、まず地元の豪族である安西氏などが味方に加わりました。さらに頼朝は、関東各地の有力な武士たちに対して「私の味方になれば、お前たちの土地(所領)を確実に保証してやる」という内容の手紙(御教書)を次々と送ります。この力強い約束に応え、下総国(千葉県北部)の有力者である千葉常胤(ちばつねたね)が一族を率いて頼朝軍に合流することをいち早く決断し、頼朝軍は一気に活気づきました。
頼朝にとって最大のターゲットは、房総半島で最大の武力を持つ上総広常(かずさひろつね)でした。広常は約2万という大軍を率いて頼朝のもとへやって来ますが、わざと遅刻して頼朝の器量(リーダーとしての素質)を試そうとしました。しかし頼朝は少しも怯まず、「遅刻するような奴は今すぐ帰れ!」と堂々と激しく叱りつけます。この毅然とした大物っぷりに広常は深く感服し、彼に絶対の忠誠を誓うことになりました。
上総広常という巨大な勢力が味方になったことで、様子を見ていた周囲の武士たちも「これは頼朝様が勝つ!」と確信し、次々と雪崩を打って頼朝軍に参加し始めました。安房に上陸した時はわずか数名だった哀れな敗残兵の集団は、房総半島を北上して下総国・葛飾郡に至る間に奇跡的なスピードで膨れ上がり、わずか1ヶ月ほどで数万騎を擁する関東最強の大軍勢へと劇的な変貌を遂げたのです。平家への不満という導火線に、頼朝という火が点いた瞬間でした。
頼朝の大軍勢を構成したのは、「自分たちが命がけで開拓した土地(一所懸命)を自分たちで守りたい」という切実な願いを持つ、独立心に溢れた坂東武者(ばんどうむしゃ)たちでした。頼朝は彼らの要求を正確に汲み取り、京都の平家や朝廷とは違う「武士のための新しい独立した政権」を関東に作ることを約束します。頼朝は単なる源氏の棟梁という立場から、関東の武士たちの夢と希望を体現する絶対的なリーダーへと劇的な進化を遂げたのです。
大軍勢を率いて下総国から隅田川を渡り、武蔵国(東京都・埼玉県)へと入った頼朝は、関東の武士たちに熱狂的に推戴されながら進軍を続けました。そして1180年10月、ついに彼の祖先である源頼義や源義家が拠点を置いた源氏ゆかりの聖地・鎌倉(神奈川県)へと堂々の入城を果たします。石橋山での悲惨な敗北からわずか1ヶ月半後、頼朝はのちに数百年にわたる武家政権の首都となる鎌倉の地を、自らの強固な本拠地に定めたのです。
頼朝が鎌倉に入って巨大な勢力を作ったという知らせに、平家は慌てて討伐軍を東へ送ります。しかし、勢いに乗る頼朝軍は富士川の戦い(静岡県)で平家の追討軍と対峙しました。この時、夜中に飛び立った何万羽もの水鳥の羽音を敵の奇襲だと勘違いした平家軍が、恐れおののき戦わずして大パニックに陥り、京都へと逃げ帰ったという有名なエピソードが残っています。この決定的な勝利により、関東における頼朝の支配力はもはや揺るぎないものとなりました。
一度はすべてを失いかけた源頼朝が、安房国への上陸を機に関東の武士たちをまとめ上げたこの快進撃は、まさに日本の歴史に残る奇跡の大逆転劇でした。もし彼が伊豆の洞窟や海の上で命を落としていたら、その後の日本の歴史は全く違う方向に進んでいたはずです。この安房国からの力強い再起は、やがて平家一門を滅亡に追い込み、日本初の本格的な武家政権である鎌倉幕府を開くための、歴史の決定的な分岐点(ターニングポイント)となったのです。