1572年、甲斐国(山梨県)を治める戦国最強の武将・武田信玄が、室町幕府の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)のSOSに応えて、ついに京都を目指して大軍を動かしました(西上作戦)。その進軍ルート上には、織田信長と同盟を結んでいる徳川家康の領地である遠江国(静岡県西部)がありました。信玄の大軍勢は、家康の領地にあるお城を次々とポンポン落としながら、ものすごいスピードで突き進んできました。
家康は本拠地である浜松城に立てこもり、味方の信長からの応援部隊と一緒に信玄を迎え撃つ準備をしていました。ところが信玄は、浜松城を攻撃せずに「家康くんには用はないよ〜」と言わんばかりに、お城の目の前を完全スルーして通り過ぎようとしたのです。これを見た若き家康は「俺の城を素通りするなんて、ナメやがって!武士のプライドが許さん!」と完全にブチギレてしまい、城から飛び出して信玄軍の背後を追撃してしまいました。
しかし、それこそが信玄の計算し尽くされた罠でした。家康の軍勢が城から離れて台地(三方ヶ原)に誘い出された瞬間、通り過ぎたはずの武田軍がクルッと振り返り、完璧な陣形(魚鱗の陣)を組んで待ち構えていたのです。完全に裏をかかれた家康軍は、戦国最強と恐れられた武田の騎馬隊にボコボコにされ、たったの2時間ほどで壊滅状態になってしまいました。信長が送ってくれた応援部隊もあっという間に蹴散らされてしまいます。
自分の部下たちが次々と盾になって死んでいく中、家康は命からがら浜松城へと逃げ帰りました。この時、家康はあまりの恐怖で馬の上でウンチをもらしてしまった、という伝説が残っているほどです。城に逃げ込んだ家康は、わざと城の門を全開にして篝火(かがりび)を焚く「空城の計(くうじょうのけい)」という心理戦を使い、追ってきた武田軍に「何か罠があるのでは?」と警戒させることで、なんとか城が落とされるのを防ぎました。
大敗北を喫した直後、家康は自分の惨めな姿(恐怖で顔をしかめている姿)を絵師に描かせたと言われています。これが有名な「しかみ像(徳川家康三方ヶ原戦役画像)」です。「自分の冷静さを失った行動が、多くの家臣を死なせてしまった。この悔しさと恐怖を一生忘れない!」という強い自分への戒めでした。この三方ヶ原の戦いでの大失敗から学んだ「我慢強さ」と「慎重さ」が、のちに家康が天下を取るための最大の武器へと成長していくのです。