平安時代末期、平清盛を中心とする平氏一門は「平家にあらずんば人にあらず」と豪語し、日本の政治と富を完全に独占していました。その煽りをまともに受けていたのが、後白河法皇の第3皇子である以仁王(もちひとおう)です。彼は非常に優秀で、本来なら天皇になってもおかしくない血筋でした。しかし、平清盛が自分の孫(安徳天皇)を無理やり天皇にしたため、以仁王は皇族としての特権すら奪われ、非常にみじめで屈辱的な生活を強いられていたのです。
平氏への深い怒りと恨みを抱えていた以仁王のもとに、一人の老武将が密かに近づきました。それが、源氏の長老である源頼政(みなもとのよりまさ)です。頼政は、源氏でありながら平氏政権の中で唯一、高い身分(三位)を与えられていた人物でした。しかし彼もまた、平氏の若者たちから馬鹿にされるなど、平氏の横暴な振る舞いに我慢の限界を迎えていました。お互いの利害が一致した二人は、極秘裏に平氏打倒のクーデター計画を練り始めます。
1180年4月、以仁王は日本の歴史を大きく動かす一枚の文書を作成しました。それは「全国の源氏たちよ、今すぐ立ち上がり、天皇を操る逆賊・平氏を討ち滅ぼせ!」という、皇族からの正式な命令書(令旨:りょうじ)でした。頼政の養子である源行家(みなもとのゆきいえ)が密使となり、この危険な令旨を隠し持って、伊豆に流されていた源頼朝や木曾の源義仲など、全国各地に散らばっていた源氏の武将たちのもとへ極秘に配り歩いたのです。
全国の源氏が一斉に蜂起する完璧な計画のはずでした。しかし5月、なんと挙兵の準備が整う前に、この極秘計画が平清盛にバレてしまったのです!激怒した清盛は、直ちに以仁王を捕らえるよう大軍を差し向けました。絶体絶命の危機に陥った以仁王は、女性の着物を着て女装し、夜の闇に紛れてなんとか京都の御所を脱出します。彼が逃げ込んだ先は、平氏と激しく対立していた強力な僧兵(武器を持った僧侶)がいる三井寺(園城寺)でした。
計画がバレたことを知った源頼政も、ついに腹をくくります。彼は自らの屋敷に火を放ち、一族の武士たちを引き連れて三井寺の以仁王のもとへ合流しました。しかし、平氏の巨大な討伐軍が迫る中、三井寺の僧兵だけでは勝ち目がありません。頼政たちは、さらに強力な味方である奈良の興福寺の僧兵たちと合流するため、南へと必死の撤退を開始します。そしてその途中、京都と奈良を結ぶ重要な拠点である「宇治(うじ)」で、運命の決戦を迎えることになります。
1180年5月26日、以仁王と頼政の軍勢は宇治川に到着しました。彼らは平氏軍の追撃を少しでも遅らせるため、宇治橋の床板をすべて剥がし、橋の骨組みだけの状態にして防衛線を張りました(宇治川の橋合戦)。平氏の先陣が橋に突撃してくると、頼政軍は容赦なく弓矢を射掛け、多くの平氏の武士たちが宇治川の激流へと落ちていきました。頼政軍の必死の抵抗により、戦いは一時的に膠着状態に陥ります。
しかし、平氏軍には圧倒的な数の暴力がありました。平氏の武将が「馬に乗ったまま川を渡れ!」と号令をかけると、決死の覚悟を決めた大軍勢が一斉に宇治川の濁流へと飛び込んだのです。馬を盾にしながら強行突破を図る平氏の大軍を前に、数で劣る頼政軍はついに防衛線を突破されてしまいます。次々と味方が討ち取られ、頼政の息子たちも壮絶な戦死を遂げました。もはや、勝敗は誰の目にも明らかでした。
頼政は、以仁王をなんとか奈良へ逃がすため、自らが囮(おとり)となって最後まで平等院(宇治)に踏みとどまりました。77歳という老体にいくつもの矢を受け、これ以上は戦えないと悟った頼政は、静かに刀を抜き「埋もれ木の花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ悲しかりける」という無念の辞世の句を詠み、見事に切腹して果てました。源氏の長老の、誇り高くも悲しい最期でした。
頼政の命懸けの足止めのおかげで奈良へ向かった以仁王でしたが、その逃避行も長くは続きませんでした。興福寺の救援部隊と合流する直前、平氏の追っ手に追いつかれてしまい、激しい戦闘の末に流れ矢に当たって討ち死にしてしまったのです。皇族である以仁王の首は容赦なく切り落とされ、平氏によって京都で晒し首にされました。平氏を打倒して新しい世を作るという二人の夢は、宇治の露と消え、完全に失敗に終わったかに見えました。
しかし、二人の死は決して無駄ではありませんでした。以仁王がバラまいたあの「令旨」は、生き物のように全国の源氏たちの怒りに火をつけていたのです。「皇子様の無念を晴らし、平氏を倒せ!」。この事件からわずか3ヶ月後、伊豆の源頼朝が令旨を大義名分としてついに挙兵します。それに続いて木曾の源義仲らも次々と立ち上がり、日本全体を巻き込む治承・寿永の乱(源平合戦)という巨大な炎となって燃え上がっていくのです。