1582年6月、本能寺の変で織田信長が討たれると、日本中に大激震が走りました。特に大パニックになったのが、そのわずか3ヶ月前に信長が滅ぼしたばかりの武田氏の旧領土(現在の山梨県・長野県・群馬県)です。信長が派遣してこの地を治めていた織田家の家臣たちは、地元民の激しい一揆や混乱に恐れをなして一斉に逃げ出してしまいました。これにより、日本のど真ん中に「誰も持ち主がいない広大で豊かな空き地」がポツンと誕生してしまったのです。
「あの巨大な領土がタダで手に入るかもしれない!」この千載一遇の大チャンスに、周辺の東日本の三大勢力が一斉に牙を剥きました。三河の徳川家康、相模の北条氏直(ほうじょううじなお)、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)です。彼らは大軍を率いて一斉に旧武田領へと雪崩れ込み、血で血を洗う壮絶な領土の奪い合い、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)の火蓋が切って落とされました。三つ巴の激しいサバイバルゲームの開幕です。
真っ先に争ったのは北条と上杉でしたが、北条が上杉と和睦(仲直り)して信濃へ進軍したことで、戦いのメインは「徳川 vs 北条」へと移ります。北条軍は約5万という圧倒的な大軍勢でしたが、迎え撃つ徳川家康はわずか8千ほどの兵力しかありませんでした。しかし家康は甲斐国の拠点を死に物狂いで守り抜き、ゲリラ戦や巧みな心理戦で徹底的に粘ります。正面衝突を避け、相手のスキを伺う家康の持ち前の我慢強さが試される、ギリギリの戦いが続きました。
戦局を大きく動かしたのは、単純な武力ではなく家康の巧みな「調略(裏工作)」でした。家康は、武田氏の旧家臣で北条軍についていた者たちに「味方になれば今の領地をそのまま保証するぞ」と次々に手紙を送り、水面下で寝返らせていきます。中でも、信濃国の国衆であった知将・真田昌幸(さなだまさゆき)が北条を裏切って徳川に寝返ったことは決定的でした。北条軍は一気に補給路を断たれる危機に陥り、戦意を大きく喪失してしまったのです。
勝負がつかないと悟った北条氏は、家康の娘を北条氏直の妻にするという条件でついに和睦します。この結果、徳川家康は甲斐・信濃の2ヶ国を新たに手に入れ、もともと持っていた三河・遠江・駿河と合わせて「5ヶ国を支配する大大名」へと劇的な大出世を遂げました。この天正壬午の乱で得た広大な領土と屈強な「旧武田軍の家臣たち」が、のちに豊臣秀吉と戦い、さらには天下取りへと向かうための最強の原動力となっていくのです。