奈良時代の基本ルールである班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)では、土地はすべて国のもの(公地公民)であり、6歳以上の国民に口分田(くぶんでん)という田んぼが与えられました。しかし、平和な時代が続いて人口が急激に増えると、国が配るための田んぼが圧倒的に足りなくなってしまいます。政府は「新しく田んぼを作れ!」と命令しましたが、農民たちは全くやる気を見せませんでした。
農民たちがやる気を出さなかった理由は単純です。どれだけ汗水流して荒れ地を切り拓き、新しい田んぼ(開墾地)を作っても、当時の法律では「土地は国のもの」であり、死んだらすべて国に没収されてしまうからです。「どうせ自分たちのものにならないなら、苦労して新しい田んぼを作るだけ損だ」。農民たちが開墾をサボるのは、人間として当然の心理であり、国は税収不足という大ピンチに陥りました。
この大問題を解決するため、723年(養老7年)に当時の最高権力者であった長屋王(ながやおう)らが中心となって新しい法律を作りました。それが「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」です。「新しく用水路や池を作って開墾した田んぼは、三代(本人・子・孫)まで自分の土地にしていいよ」という、当時としては非常に画期的な「期間限定のマイホーム(私有地)許可ルール」でした。
この法律にはもう一つのルールがありました。全くのゼロからではなく、「昔からある用水路やため池を修理・再利用して開墾した田んぼ」については、三代ではなく「一代(本人のみ)」に限り私有を認めるというものです。苦労の度合いによってご褒美である私有の期間を変えるという、非常に現実的で細かな配慮がなされたシステムでした。これで農民たちも喜んで働くはずだと政府は考えたのです。
「自分や子孫の財産になるなら話は別だ!」。この三世一身法が発表されると、全国の農民たちは目の色を変えて荒れ地の開墾に飛びつきました。農民だけでなく、お金や力を持つ貴族や大きなお寺(寺社)も、労働力を大量に投入して一斉に土地の開発に乗り出します。政府の狙い通り、日本中で空前の「開墾ブーム」が巻き起こり、新しい豊かな田んぼが次々と生まれていきました。
しかし、この法律は農民だけを豊かにしたわけではありませんでした。財力のある貴族や大きなお寺は、浮浪者や貧しい農民たちを日雇い労働者のように雇い、大規模な用水路の建設や森の開拓を行わせました。結果的に、力のある者だけがどんどん広大な土地(のちの荘園のルーツ)を手に入れ、富を蓄積していくという、資本主義のような格差社会が始まるきっかけにもなったのです。
開墾ブームで国の税収も増え、三世一身法は大成功したかに見えました。しかし、十数年、二十年と時が流れるにつれ、農民たちの間に再び不穏な空気が漂い始めます。三代(または一代)という期限が近づいてきたからです。「あと数年で、この田んぼも国に取り上げられてしまう」。期限切れのタイムリミットが、農民たちのモチベーションを再び急激に奪っていきました。
「どうせ国に没収されるなら、もう草むしりも肥料やりもやめよう」。農民たちは期限が迫った田んぼの世話を放棄し、設備も放置しました。その結果、せっかく開墾された豊かな田んぼは、あっという間に元の荒れ地へと戻ってしまったのです。結局、国が手に入れられたのは使い物にならない荒れ地ばかりで、三世一身法はわずか20年足らずで完全にシステムとして崩壊してしまいました。
この大失敗から「期間限定では絶対に人は働かない」という人間の真理を痛感した政府は、743年についに「自分で開墾した土地は、永久に自分のものにしてよい」という究極の法律、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を発表することになります。三世一身法は失敗に終わりましたが、この「永久私有」という歴史的な大改革を引き出すための、必要不可欠な実験だったと言えます。
テスト対策として重要なのは、三世一身法とそれに続く墾田永年私財法が、大化の改新以来の絶対ルールであった「公地公民(土地と人民はすべて天皇のもの)」という国の根幹を自ら打ち崩してしまった点です。貴族や寺社が永久に持つ私有地(荘園)が生まれ、やがてそれを守るために武士が誕生する。この法律は、日本の社会構造を根本から変える歴史の決定的な契機となったのです。