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朝鮮半島・百済の滅亡 ちょうせんはんとう・くだらのめつぼう 外交 ☆ 重要

🕒 660年3月 📜 飛鳥時代
国: 日本,百済 📍 場所: 朝鮮半島(百済・サビ城など) 👤 関連: 斉明天皇,天智天皇
660年、日本の古くからの同盟国であった朝鮮半島の百済(くだら)が、超大国である唐と新羅の連合軍に攻め込まれて滅亡した事件です。東アジアのパワーバランスが大きく崩れ、百済の復興を支援しようとした日本が、のちの白村江の戦いへと巻き込まれていく歴史の決定的な契機となりました。この強烈な危機感が、天皇を中心とする強力な国づくり(律令国家の形成)を極めて早いスピードで進めることになります。
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激動の東アジアと三国時代

飛鳥時代の頃、海を隔てたお隣の朝鮮半島は、北の「高句麗」、南西の「百済(くだら)」、南東の「新羅(しらぎ)」という3つの国が激しく領土を争う、不安定な「三国時代」と呼ばれる状況にありました。その中で日本(当時の大和政権)は、仏教や漢字、進んだ大陸の土木技術などを伝えてくれた百済と、長年にわたって非常に深く親しい軍事・外交の同盟関係を結んでいました。百済は日本にとって大陸の窓口でした。
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超大国「唐」の野望と新羅の接近

7世紀前半、中国大陸では強大な軍事力を持つ巨大帝国「(とう)」が建国され、周辺の国々を次々と支配下に置こうと虎視眈々と狙っていました。唐は朝鮮半島全体をコントロール下に置くため、半島で孤立気味だった新羅と強力な軍事同盟を結びます。これにより、高句麗と百済は挟み撃ちにされる形となり、東アジアのパワーバランスは一気に唐・新羅の連合軍へと傾き、かつてない緊張状態が高まっていきました。
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660年、圧倒的な大軍の侵攻

660年、ついに唐と新羅の連合軍が動き出します。唐の海軍が海から、新羅の陸軍が陸から、合計で約13万人という当時の常識を覆す圧倒的な大軍勢で百済へ一斉に攻め込みました。百済の軍隊も名将・階伯(ケベク)を中心に必死に防衛線を張って抵抗しましたが、最新の兵器と組織的な戦術を持つ巨大帝国の連合軍の前に、各地の城や砦は次々と破られ、百済の防衛網はあっという間に崩壊してしまいました。長きにわたって栄えた百済は、建国以来の最大の危機に陥ります。
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王の降伏と百済のあっけない滅亡

同年7月、ついに百済の首都であるサビ城が連合軍の猛攻によって陥落してしまいます。最後まで抵抗を諦めなかった義慈王(ぎじおう)も、逃げ込んだ先の城で捕らえられ、ついに唐に対して降伏を宣言しました。こうして、日本に多くの文化をもたらし、何百年も続いた由緒ある百済の国は、あっけなく地図上から姿を消してしまったのです。王族や多くの貴族たちは捕虜として唐の都・長安へ連れ去られるという悲惨な運命を辿りました。
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遺臣たちの執念と日本へのSOS

国は滅びましたが、百済の人々の心までは折れていませんでした。黒歯常之(こくしじょうし)や鬼室福信(きしつふくしん)といった百済の生き残りの家臣(遺臣)たちは、険しい山や砦に立てこもり、ゲリラ戦を展開して激しい復興運動を続けました。しかし、連合軍の圧倒的な物量の前には限界があります。彼らは最後の希望を託し、古くからの同盟国である日本に対して「どうか軍隊を送って百済を助けてください!」と悲痛な救援の要請(SOS)を送ってきたのです。

斉明天皇と中大兄皇子の強い衝撃

海を越えて届いた百済滅亡とSOSの知らせに、日本のトップであった斉明天皇(さいめいてんのう)と中大兄皇子(のちの天智天皇)は強い衝撃を受けました。「もし百済が完全に唐の手に落ちれば、次は海を渡って日本が侵略されるかもしれない!」。この強烈な危機感が朝廷を突き動かします。彼らは同盟国を見捨てることは日本の信用を失うことにもなると考え、国家の威信と存亡を賭けて、百済復興の支援を決断しました。
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国家の威信を賭けた大軍隊の派遣

斉明天皇は、自ら軍隊の先頭に立って指揮を執るため、都のある飛鳥を離れて九州の筑紫(福岡県)へと大移動を行いました。全国から兵士や武器、船を大量に集めるという、かつてない規模の軍事動員が発令されます。九州で斉明天皇が急死するというアクシデントに見舞われましたが、中大兄皇子がその遺志を継ぎ、日本全土の力を結集して、数万人に及ぶ巨大な百済救援軍を編成して朝鮮半島へと送り出したのです。
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百済王子・豊璋の帰国と新たな希望

この時、日本には百済の王子である豊璋(ほうしょう)が外交の人質として長年滞在していました。中大兄皇子は彼に豪華な衣服と武器を与え、百済の新しい王として帰国させました。豊璋をトップに頂くことで、百済の遺臣たちの士気を高め、バラバラだった復興運動を一つにまとめようとしたのです。日本の強力な軍事支援と新しい王の誕生により、一時的に百済復興軍は唐・新羅軍を押し返すほどの猛反撃を見せました。
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古代最大の世界大戦への導火線

しかし、唐も黙ってはいませんでした。さらに数十万という大軍を朝鮮半島に増援し、事態は泥沼化していきます。この百済滅亡をきっかけとした日本の軍事介入は、3年後の663年、日本の水軍と唐・新羅の巨大水軍が直接激突する古代東アジア最大の世界大戦「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」へと繋がっていきます。百済の滅亡は、日本が初めて直面する本格的な国際戦争の引き金(導火線)となったのです。
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防衛改革と律令国家への転換点

白村江の戦いで大敗北を喫した日本は、唐の侵略に怯え、水城や山城などの巨大な防衛施設を急ピッチで建設することになります。朝鮮半島での百済滅亡は、単なる他国の悲劇ではありませんでした。これを機に日本は国家存亡の危機を肌で感じ、天皇を中心に国を一つにまとめるための戸籍作りや法律の整備を急ぎました。天皇を中心とする強力な律令国家を作るための、歴史の決定的な分岐点となったのです。
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