1637年、九州の島原(長崎県)と天草(熊本県)で起きた、江戸時代最大規模の農民とキリスト教徒(キリシタン)による大反乱です。原因は、領主による「異常に重い税金(年貢)」と「キリシタンへの残酷な拷問」でした。怒りを爆発させた約3万7千人の民衆は、16歳のカリスマ少年・天草四郎(あまくさしろう)をリーダーとして原城(はらじょう)に立てこもり、幕府の大軍と数ヶ月にわたって激闘を繰り広げました。この事件をキッカケに、幕府はキリスト教を完全に禁止する絵踏(えぶみ)を強化し、外国との関係を断ち切る「鎖国(さこく)」を完成させることになります。テストに超頻出する特大ドミノの事件です。
島原の領主だった松倉勝家(まつくらかついえ)は、自分の見栄でお城を立派にするため、農民からありとあらゆる税金(年貢)を絞り取っていました。お米が払えなければ、農民の妻や娘を人質にして水牢に沈めたり、蓑(みの)を着せて火を放つ「蓑踊り」という残酷な拷問を行ったりと、そのやり方は異常でした。さらに、キリスト教を捨てることを拒む人々にも恐ろしい処刑を繰り返しており、領民たちの怒りと悲しみは限界を超え、いつ爆発してもおかしくない火薬庫のような状態だったのです。
「もう我慢できない!」1637年秋、ついに農民たちが役人を殺害して反乱を起こすと、その火種はあっという間に島原と天草の全体に燃え広がりました。この数万人の大反乱軍のトップに担ぎ上げられたのが、わずか16歳の美しい少年・天草四郎です。彼は「盲目の少女の目を治した」「海の上を歩いた」などの奇跡を起こすと信じられており、絶望していたキリシタンや農民たちは彼を「神の使い」として熱狂的に支持し、命を捨てる覚悟で一つに団結したのです。
反乱軍は約3万7千人で、廃城となっていた原城(はらじょう)に立てこもりました。中には元・戦国武将たちも混ざっており、城の守りは鉄壁でした。鎮圧に向かった幕府の軍勢(約12万人)は、なんと反乱軍の激しい銃撃に大苦戦し、幕府側の総大将が討ち死にするという大失態を演じてしまいます。「たかが農民の反乱」と甘く見ていた幕府は面子を丸潰れにされ、知恵者として名高い松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たな総大将として送り込み、本気の包囲戦(兵糧攻め)へと作戦を切り替えました。
数ヶ月に及ぶ包囲により、原城の中は食料も弾薬も完全に尽き果て、人々は海藻などを食べて飢えをしのぐ地獄のような状況でした。1638年2月28日、ついに幕府軍の総攻撃が開始されます。反乱軍は石や鍋を投げて最後まで抵抗しましたが、力尽きて城は陥落。天草四郎は討ち取られ、立てこもっていた男も女も子供も、約3万7千人が誰一人降伏することなく、ほぼ全員が撫で斬り(皆殺し)にされるという、日本史に残る大悲劇となって幕を閉じました。
反乱の原因を作った大名(松倉勝家)は、大名としては江戸時代で唯一となる「斬首(打ち首)」という重罰を受けました。しかし、幕府が最も恐れたのは「キリスト教の恐るべき団結力」でした。「外国から宣教師や武器が入ってきたら、幕府が滅ぼされるかもしれない!」と震え上がった幕府は、キリスト教徒を見つけ出すための絵踏(えぶみ)を全国で徹底します。そして1639年、ついにポルトガル船の来航を禁止し、日本の窓を完全に閉ざす鎖国(さこく)体制を完成させたのです。