995年、平安京を恐ろしい疫病(天然痘などの感染症)のパンデミックが襲いました。この疫病は身分を問わず猛威を振るい、当時の最高権力者(関白)であった藤原道隆(みちたか:道長の兄)も病に倒れて亡くなってしまいます。さらに、道隆の弟で次の関白になった藤原道兼(みちかね)も、就任からわずか数日で病死するという異常事態が起きました。国のトップが次々と消えたことで、朝廷の権力の座に巨大な「空席」が生まれました。
空席となった最高権力者の座を巡って、ドロドロの権力闘争が勃発します。候補者は二人。一人は亡き道隆の息子であり、若くしてエリートコースを爆走していた22歳の藤原伊周(これちか)。もう一人は、伊周の叔父であり、これまで目立たない存在だった30歳の藤原道長でした。一条天皇は、亡き道隆の希望もあり若い伊周を次のトップにしたいと考えており、当初は伊周が圧倒的に有利な状況でした。
道長の大ピンチを救ったのは、一条天皇の母親(皇太后)である藤原詮子(せんし)でした。彼女は道長の姉であり、可愛い弟である道長をどうしてもトップにしたいと強く願っていました。詮子は天皇の寝室に乗り込み、「伊周のような若造に政治は任せられません!どうしても道長を後継者にしてください!」と、泣きながら天皇に激しく詰め寄りました。母親の猛烈な圧力に、さしもの天皇も折れるしかありませんでした。
こうして995年5月11日、一条天皇は伊周ではなく道長を選び、彼に「内覧(ないらん)」という役職を与えました。内覧とは、全国から天皇のもとに届けられる政治の重要書類を、天皇が読む前にすべてチェック(事前検閲)できるという、とてつもない権限です。天皇に都合の悪い書類は握りつぶすことも可能であり、実質的に「関白」とほぼ同じパワーを持つ、最高権力者のパスポートでした。道長は見事に大逆転勝利を収めたのです。
ここで不思議なのが、道長がその後も「関白」という一番偉い肩書きになろうとしなかったことです。関白になれば名実ともにトップになれます。しかし道長は「関白という名誉ある肩書きよりも、実際に書類をコントロールできる『内覧』の実権さえあれば十分だ」と非常に現実的な考えを持っていました。肩書きにこだわって敵を作るよりも、確実に政治の実権を握り続けるという、極めて賢く計算高い作戦だったのです。
「内覧」の権限を手に入れた翌月、道長は政治の現場のトップである「左大臣」に昇進しました。これで道長は、書類のチェック権(内覧)と、現場の指揮権(左大臣)の両方を完全に掌握しました。一方、敗れた伊周は「内大臣」のままであり、地位が完全に逆転してしまいます。プライドを粉々にされた伊周は激しく取り乱し、翌年、女性関係のトラブルから「長徳の変」という大事件を起こして自滅し、完全に没落していきました。
ライバルを蹴落とした道長が次に行ったのは、天皇と「外戚(がいせき:奥さんの父親)」の関係を結ぶことでした。道長は、長女である藤原彰子(しょうし)を無理やり一条天皇の奥さん(中宮)として送り込みます。すでに天皇には伊周の妹である定子(ていし)という奥さんがいましたが、道長は権力を使って前代未聞の「一人の天皇に二人の正妻」という状況を作り出し、自分の孫を次の天皇にするための布石を打ったのです。
道長は、娘の彰子が天皇から深く愛されるように、彼女の周りに当時の一流の文化人や才女たちを集めて豪華なサロンを作りました。その代表格が『源氏物語』を書いた紫式部(むらさきしきぶ)です。(ちなみに、没落した伊周の妹・定子に仕えていたのが『枕草子』の清少納言です)。道長の圧倒的な財力と権力は、こうした平安時代の華やかな国風文化をパトロンとして強力に支える原動力にもなりました。
「内覧」への任命を皮切りに、道長は次々と自分の娘たちを天皇の妻とし、三人の天皇の「おじいちゃん」として約30年にもわたって日本の政治を完全に独占しました。1018年、すべてを手に入れた道長は、宴会の席で有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という和歌を詠みます。満月のように自分の人生には何の不満もないという、藤原氏の栄華の絶頂を示す有名なエピソードです。
テスト対策として、藤原道長が「関白にはならなかった(内覧と摂政のみ)」ということは引っかけ問題でよく出ます。道長がこの「内覧」という実務的な権限を手に入れた995年は、彼がライバルに打ち勝ち、藤原北家による摂関政治が完全な黄金時代へと突入する、歴史の決定的な分岐点でした。彼が築き上げた絶対的な権力システムは、息子の藤原頼通へと受け継がれ、平安貴族社会の頂点を極めることになります。