1086年、白河天皇はまだ幼い息子(堀河天皇)に天皇の座を譲って上皇となり、自らは天皇の親として裏から政治を操る院政(いんせい)を始めました。天皇の決定よりも「上皇の命令(院宣)」が優先されるという新しい仕組みです。出家して白河法皇となった後も、彼は日本の事実上のトップとして絶対的な権力を振るい続けました。しかし、そんな無敵の法皇にも、どうしても思い通りにならない「三つの厄介な存在」があったのです。
白河法皇が嘆いた三つの厄介なもの、それは「賀茂川の水、双六の賽(さいころ)、山法師」でした。いつでも氾濫する川の水、ギャンブルのサイコロの目、そして比叡山延暦寺などの強暴なお坊さんたち(山法師)です。いくら法皇が偉くても、氾濫する大自然の力と運任せのギャンブル、そして神仏の権威を見せつけて暴れ回る宗教勢力だけは、どうしても自分の思い通りにコントロールすることができず、常に頭を抱えていたのです。
当時の大きなお寺には、僧兵(そうへい)と呼ばれる武器を持った乱暴なお坊さんたちが何千人もいました。彼らは朝廷に自分たちの要求を通すため、神様が乗る神聖な「神輿(みこし)」を担いで京都の町へと押し寄せました。これを強訴(ごうそ)と呼びます。「要求を聞かないと神様が怒ってバチが当たるぞ!」と脅しをかける、非常にタチの悪い宗教的なデモ行進でした。人々は神の祟りを恐れ、誰も彼らに逆らえませんでした。
僧兵たちが神輿を担いで暴れ回ると、京都の治安を守るはずの伝統的な貴族の役人や警備隊たちは、神の祟りを恐れて逃げ出してしまいました。「神輿に向かって矢を射るなんて、恐ろしくて絶対にできない!」。天皇や法皇の住まいである御所すらも僧兵の脅威にさらされる中、白河法皇は「祟りなどを恐れず、命令通りに武力で彼らを制圧できる、プロの戦闘集団が必要だ」と痛感します。そこで目を付けたのが「武士」でした。
1095年、白河法皇は自分の住まいである院の御所の北側(北面)の部屋に、腕っぷしの強い武士たちを常駐させました。これがテストに頻出する北面の武士(ほくめんのぶし)です。彼らは法皇の直属の親衛隊(ボディーガード)として、強訴にやってくる僧兵たちを容赦なく弓矢で追い払いました。神仏の祟りよりも法皇の命令を何よりも優先して忠実に実行する彼らの存在は、白河法皇の独裁的な権力をさらに強固なものにしていったのです。
この制度ができるまで、武士という身分は貴族たちから「地方の乱暴な用心棒」や「番犬」として低く見られていました。しかし、北面の武士に選ばれると、日本の最高権力者である法皇のすぐそばで働くことができ、天皇の御所に出入りできるような非常に高い身分(昇殿)が特別に与えられるチャンスもありました。武士たちにとって、北面の武士になることは、中央の政治の舞台へとつながる最高のエリートコースとなったのです。
北面の武士には、源氏や平氏といった有力な武士たちがこぞって参加しました。特に白河法皇が重用したのが、伊勢国(三重県)を拠点とする平氏一門です。当時、源氏のヒーローである源義家が人気を集めすぎて法皇から警戒されていたのに対し、平正盛(たいらのまさもり:平清盛の祖父)は、法皇の領地を寄付したり、法皇の命令に忠実に従ったりして、北面の武士として見事に法皇の心を掴み、大出世の糸口を掴んでいきます。
1108年、源義家の息子である源義親が反乱を起こすと(源義親の乱)、白河法皇は北面の武士である平正盛に討伐を命じました。正盛はこれを見事に平定し、源氏の御曹司を討ち取ったことで法皇からの絶対的な信頼を勝ち取ります。この事件を機に武士のトップブランドは源氏から平氏へと逆転しました。北面の武士という役職は、平氏一門がのちに日本の頂点へと登り詰めるための、最も重要な出世の足がかりとなったのです。
白河法皇は自分を守るために武士を重用しましたが、これは歴史的に見ると「自分の身を守るために、凶暴な虎を家の中に飼う」ようなものでした。武士たちは法皇のそばで働くうちに、貴族たちが実際にはひ弱で、武力がないことに気づいてしまったからです。「俺たちの力があれば、政治だって動かせるのではないか?」。警備員として雇われた武士たちは、やがて朝廷の権力を根底から揺るがす恐ろしい存在へと成長していきます。
北面の武士の設置は、武士が政治の中枢へ進出する歴史の決定的な端緒を開きました。この後、平清盛が武士として初めて太政大臣となり初の武家政権(平氏政権)を打ち立て、さらに源頼朝が鎌倉幕府を開くことになります。法皇が僧兵対策という目の前の問題を解決するために作った小さな警備隊が、結果的に天皇や貴族の時代を終わらせ、武士が日本を支配する時代を呼び込むという、巨大な歴史のパラダイムシフトをもたらしたのです。