1633年に第1次の鎖国令を出した幕府でしたが、まだまだ問題は山積みでした。幕府の許可証(奉書)を持たない怪しい船がこっそり貿易を続けたり、海外に住む日本人が勝手に帰国したりと、ルール破りが後を絶たなかったのです。「このままではキリスト教が入り込んでしまう!」と焦った第3代将軍・徳川家光は、翌1634年、ルールをさらに厳しく徹底するための「第2次鎖国令」を発令しました。
この第2次鎖国令のタイミングで、幕府は長崎で巨大プロジェクトを動かします。当時、長崎の町には貿易商人のポルトガル人が自由に住み着き、こっそりキリスト教を広めていました。これに頭を抱えた幕府は「あいつらを日本人から完全に引き離して、一ヶ所に閉じ込めろ!」と命令を下します。そして長崎の裕福な商人たちに大金を出させて、海の上に扇の形をした人工の島を造らせることにしました。
こうして1634年に建設が始まったこの人工島こそが、のちに日本の歴史で超重要な役割を果たすことになる出島(でじま)です。海を埋め立てて造られた出島は、たった一つの橋でしか陸地と繋がっておらず、出入りは厳しく監視されました。約2年の歳月をかけて1636年に完成すると、長崎にいたポルトガル人は全員この出島に押し込まれ、日本人と勝手に交流することができなくなりました。
この法令で、日本人の行動もさらに厳しく制限されました。幕府が発行する特別な許可状(老中奉書)を持たない日本の船が海外へ行くことは絶対に禁止され、破れば「死刑」という恐ろしい罰が待っていました。また、海外に長く住んでいた日本人が帰郷することも固く禁じられました。「外国の怪しい思想(キリスト教)に染まった危険な者は、絶対に日本に入れないぞ!」という幕府の強い警戒心の表れでした。
1634年の第2次鎖国令と出島の建設開始により、日本は外国との関わりを「長崎」というたった一つの窓口に絞り込む準備を整えました。しかし、それでもキリスト教への恐怖は消えず、数年後には「島原・天草の乱」という大反乱が起きてしまいます。これをキッカケに幕府はさらにルールを厳しくし、最終的にポルトガル船を完全に追い出して、日本の扉を固く閉ざす「鎖国」を完成させていくのです。