630年の第1回派遣から約260年間、日本は「遣唐使」という公式な使節団を何度も唐(中国)へ送り出していました。世界最強の帝国であった唐から、最新の法律、仏教、芸術、建築技術などを学ぶためです。阿倍仲麻呂や空海、最澄といった超エリートたちが海を渡り、彼らが持ち帰った最先端の知識は、天皇を中心とした国づくりに計り知れない貢献をしてきました。唐はまさに当時の日本にとって憧れの「先生」だったのです。
しかし、遣唐使の旅はまさに命がけのギャンブルでした。当時の木造船で荒れ狂う東シナ海を渡るには大きな危険が伴い、4隻の船が出発しても無事にすべてが帰国できることは稀だったのです。嵐で船が沈んだり、病気になったりして、多くの優秀な学者や役人たちが海の藻屑となりました。「唐で学べることは多いが、あまりにも犠牲が大きすぎる」。次第に朝廷内でも、遣唐使の派遣に対する疑問と批判の声が上がり始めていました。
一方、中国大陸でも大きな変化が起きていました。かつて世界最強を誇った唐でしたが、9世紀後半になると「黄巣の乱(こうそうのらん)」という大規模な農民反乱が勃発し、国中が焼け野原になっていたのです。最新の学問を学ぶどころか、都の長安にたどり着くことすら困難なほど治安は悪化していました。日本の商人たちも「今の唐は内乱続きでボロボロです」という絶望的な現地の最新情報を持ち帰っており、もはやお手本ではなくなっていました。
そんな状況の中、894年(寛平6年)に宇多天皇(うだてんのう)は新しい遣唐大使として、当代きっての天才学者である菅原道真(すがわらのみちざね)を任命しました。本来なら非常に名誉なことですが、道真にとっては実質的な「死刑宣告」に近いものでした。なぜなら、唐の状況が最悪であることを、唐の商人や日本にいる留学僧との手紙のやり取りから、誰よりも正確に、そして冷静に把握していたのが道真自身だったからです。
「今の唐に行っても、命を落とすだけで国家の利益にはならない」。道真は深く苦悩しました。しかし、天皇の命令を簡単に断ることはできません。道真は、過去の遣唐使の記録や、最新の海外の情勢を徹底的に調べ上げました。「危険を冒してまで、すでに崩壊しかけている国から学ぶべき新しいシステムは残っていない」。道真は、日本の国益と自分自身の命を守るため、政治家としてある重大で勇気ある決断を下すことになります。
同年9月、道真は宇多天皇に対して「請令諸公卿議定遣唐使進止状(遣唐使を行かせるかどうか、会議で決めてほしいというお願い)」という建白書(意見書)を提出しました。 その中で道真は、「唐は現在大混乱しており危険であること」「航海のリスクが高すぎること」を論理的に説明し、遣唐使の派遣を白紙に戻す(中止する)ことを強く提案したのです。国家の巨大プロジェクトに真っ向からストップをかける、前代未聞の行動でした。
道真の提出した論理的で説得力のある意見書を見た宇多天皇は、深く納得しました。「確かに道真の言う通りだ。優秀な人材を無駄に死なせるわけにはいかない」。天皇は道真の提案を全面的に受け入れ、遣唐使の派遣を正式にストップさせました。「白紙(894)に戻そう遣唐使」という語呂合わせで有名なこの出来事は、260年以上続いた国家の巨大プロジェクトが終わりを告げた瞬間でした。この決断が日本の未来を大きく変えます。
道真の判断がいかに正確であったかは、その後の歴史が証明しています。遣唐使の派遣が中止されてからわずか13年後の907年、かつての超大国であった唐は完全に滅亡してしまったのです。もしあの時、無理に遣唐使を派遣していれば、道真をはじめとする日本のエリートたちは内乱に巻き込まれ、全滅していたかもしれません。道真の優れた情報収集能力と先見の明が、日本の大切な頭脳を救ったと言っても過言ではありません。
遣唐使の廃止は、日本の文化に劇的な変化をもたらしました。これまで中国の真似ばかりしていた日本人が、「自分たちの風土や感情に合った、独自の文化を作ろう」と意識を大きく変えたからです。漢字を崩した「かな文字(ひらがな・カタカナ)」が発明され、それを使って『源氏物語』や『枕草子』などの素晴らしい文学が生まれました。日本の気候や美意識に合った美しい国風文化(こくふうぶんか)が、一気に花開いていったのです。
菅原道真による遣唐使の停止は、単なる「海外出張の中止」ではありませんでした。日本が中国という「先生」からの卒業を堂々と宣言し、精神的にも文化的にも自立していくプロセスだったのです。大陸の文化を吸収し尽くした日本が、模倣の時代を終えて自分たちに合った独自の国づくりへと大きく舵を切る、歴史の決定的な分岐点となりました。この決断がなければ、私たちが知る「日本らしい文化」は決して生まれなかったかもしれません。