鎌倉幕府を開いた源頼朝の死後、実権を握ったのは妻・北条政子の父である北条時政(ほうじょうときまさ)でした。彼はライバルの有力御家人たちを次々と罠にはめて滅ぼし、初代執権として絶大な権力を誇っていました。しかし、時政には牧の方(まきのかた)という非常に野心的な若い後妻がおり、時政は彼女の言いなりになっていました。牧の方は、自分と時政の間に生まれた娘やその夫を特別扱いし、幕府を私物化しようと企み始めます。
1205年、牧の方は「有力御家人の畠山重忠(はたけやましげただ)が反乱を企てている」と嘘の告発をします。重忠は鎌倉武士の鑑と称されるほど人望が厚い武将でしたが、時政は妻の言葉を信じて彼を討伐してしまいました。この強引な粛清により、時政の息子である北条義時(ほうじょうよしとき)や政子でさえも「父上は牧の方に操られ、狂ってしまった」と強い不信感と怒りを抱くようになり、北条家内部に深い亀裂が生じました。
畠山重忠を滅ぼしてさらに権力を強めた牧の方は、ついに恐ろしい野望を抱きます。それは、幕府のトップである第3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)を暗殺し、自分の愛する娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)を第4代将軍の座にすげ替えるというクーデター計画でした。平賀朝雅は源氏の名門出身であり、京都で朝廷との交渉役を務めるエリートでした。時政もこの妻の狂気の計画に賛同し、密かに実行の準備を進めます。
時政と牧の方は、実朝を自分たちの邸宅である名越邸に招き入れ、そこで暗殺を決行するという陰謀を企てました。しかし、この極秘計画は、時政の邸宅で働く者を通じて、実朝の母である北条政子の耳に漏れ伝わってしまいます。「まさか、実の父親が私の愛する息子を殺そうとしているなんて!」。驚愕した政子は、すぐに弟の北条義時に事態を知らせ、将軍・実朝の命を救うための緊急の対策会議を開きました。
政子と義時姉弟は、究極の選択を迫られました。親孝行を重んじる当時において、実の父親である時政に刃を向けることは大変なタブーです。しかし、将軍を暗殺させれば鎌倉幕府そのものが崩壊してしまいます。「たとえ親であっても、幕府の秩序と将軍の命を優先しなければならない」。二人は苦渋の涙を流しながら、親子の情を捨てて、幕府の創設者である父・時政を武力で制圧するという、悲壮な決断を下したのです。
1205年閏7月、計画の実行を前に、政子と義時は素早く動きました。政子は時政の邸宅に武士たちを急行させ、「将軍をお迎えに上がりました」と強引に源実朝を救出し、義時の邸宅へと避難させたのです(牧氏事件)。突然兵士たちに将軍を奪い返された時政と牧の方は、計画が完全に露見したことを悟りました。時政は慌てて鎌倉中の武士たちに「私に味方して義時を討て!」と出陣の命令を下します。
しかし、時政の命令に応じる鎌倉武士は、誰一人としていませんでした。度重なる粛清や牧の方のわがままな振る舞いにより、時政はすでに人望を完全に失っていたのです。御家人たちは皆、冷静で公平な北条義時の邸宅へと集まり、義時と実朝を守る姿勢を明確にしました。鎌倉の最高権力者であったはずの時政は、たった一日で誰からも見放され、自らの邸宅で完全に孤立無援の絶望的な状況に追い込まれてしまったのです。
もはや勝ち目がないと悟った北条時政は、抵抗することを諦めて出家(お坊さんになること)し、政治の舞台から永遠に引退することを表明しました。かつて源頼朝を助け、幕府を創り上げた偉大な初代執権は、命こそ奪われなかったものの、伊豆国(静岡県)の山奥へと強制的に追放(事実上の流罪)されてしまいます。野望を抱いた牧の方も京都へ追放され、権力を私物化しようとした夫婦の陰謀は完全に失敗に終わりました。
一方、京都にいて「次の将軍になれる」と期待していた娘婿の平賀朝雅も無事では済みませんでした。義時は朝廷に圧力をかけ、京都を守る御家人たちに命令を下して、朝雅を武力で討ち取らせたのです。これにより、牧の方の陰謀に関わった者たちは一掃されました。身内であっても幕府に牙を剥く者は決して許さないという、政子と義時の冷酷なまでの徹底した危機管理能力が、鎌倉幕府の命脈を辛くも保ち、北条家の規律を内外に強く示しました。
牧氏事件の解決後、父に代わって北条義時が第2代執権に就任しました。親を追放するという冷徹な決断を下した義時のもとで、鎌倉武士たちは強く団結します。この事件は、北条氏内部の権力闘争の決着であると同時に、北条氏の実権が将軍をも凌ぐほど確固たるものとなる執権政治確立の決定的な契機となりました。義時はこの後、承久の乱で朝廷と対決し、武士の頂点へと上り詰めていくことになります。