奈良時代の平城京で政治を行っていた聖武天皇(しょうむてんのう)。しかし、彼の治世は決して安泰ではありませんでした。皇族の長屋王が自殺に追い込まれる政変が起きるなど、権力を巡るドロドロの争いが続いていました。さらに、日本全国を日照りや大地震といった自然災害が次々と襲い、農作物は枯れ果ててしまいます。国を守るトップとして、聖武天皇の心には少しずつ不安と恐怖の影が忍び寄り始めていました。
737年、日本をかつてない絶望が襲います。朝鮮半島から九州へ持ち込まれたとされる天然痘(てんねんとう)という恐ろしい感染症が、平城京にまで猛威を振るったのです。この疫病により、当時の政治のトップであった藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が次々と病死してしまいます。政治の中枢が一瞬にして崩壊し、街には死者が溢れかえるという地獄絵図を前に、聖武天皇は「自分の徳が足りないからだ」と深く苦悩することになります。
藤原四兄弟の死後、政治のトップに立ったのは皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)でした。彼は唐(中国)に留学して最先端の知識を身につけた僧侶の玄昉(げんぼう)や、学者の吉備真備(きびのまきび)を大抜擢し、新しい政治をスタートさせます。しかし、この急激なメンバー変更に不満を爆発させたのが、没落した藤原氏の一族でした。「よそ者たちが政治を牛耳っている!」という強い怒りが、やがて大きな反乱の火種となっていきます。
740年、九州の大宰府に左遷されていた藤原氏のエリート、藤原広嗣がついに反乱を起こします。これが藤原広嗣の乱です。広嗣は「玄昉と吉備真備をクビにしろ!」と要求し、九州で大規模な軍勢を挙げました。聖武天皇はすぐさま討伐軍を派遣して反乱を鎮圧しますが、天皇の足元である平城京でも広嗣に協力する者がいるかもしれないという疑心暗鬼に陥り、天皇の精神状態は完全に限界を迎えてしまいます。
反乱の知らせを聞いた聖武天皇は、パニックに近い状態に陥りました。「平城京には敵がいるかもしれない。ここにいては危険だ」。天皇は突然、「東国(関東)へ旅行に出かける」と言い出し、平城京を飛び出して伊勢(三重県)や美濃(岐阜県)へとあてもなく逃げ出しました。国を治めるトップが、反乱の恐怖から首都を捨てて彷徨い歩くという前代未聞の事態に、お供をする貴族や役人たちは大混乱に陥りました。
あちこちを彷徨った末の740年12月15日、聖武天皇は現在の京都府木津川市にあたる場所で突如として宣言します。「ここに新しい都を造る!」。これが恭仁京(くにきょう)への遷都です。立派な宮殿や役所が整っていた平城京を完全に捨て去り、何もない山奥にいきなり都を移すという常軌を逸した決断でした。平城京の建物は解体されて恭仁京へと運ばれ、貴族たちも強制的に引っ越しをさせられるという大掛かりなプロジェクトが強行されました。
恭仁京は、木津川の豊かな水運を利用できるメリットがありましたが、都の建設は困難を極めました。天皇は「仏教の力でこの国を災いや反乱から守りたい」と強く願い、全国に国分寺や国分尼寺を建てる「国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)」という重要な命令を、この恭仁京で発布します。目に見えない恐怖と戦いながら、仏の力による国家鎮護(こっかちんご)という新しい政治のあり方を模索し始めたのです。
しかし、聖武天皇の心は恭仁京でも休まりませんでした。遷都からわずか3年後の744年、天皇はまたしても「都を移す」と言い出し、今度は大坂の難波宮(なにわのみや)へと遷都を強行します。さらにその翌年には、近江(滋賀県)の紫香楽宮(しがらきのみや)へと再び都を移しました。恭仁京、難波宮、紫香楽宮と、たった5年の間にコロコロと都を変える天皇の「彷徨(ほうこう)の5年間」は、民衆に莫大な負担を強いることになりました。
この迷走の終着点となった紫香楽宮で、聖武天皇はついに歴史的な大決断を下します。「巨大な仏像(大仏)を造り、その圧倒的な力で日本中を平和にするのだ」。743年、歴史のテストに必ず出る大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)が発布されました。度重なる天災や反乱、疫病に苦しめられた天皇が、国家のすべての力を結集して巨大な仏の加護にすがるという、壮大で悲痛な祈りの結晶でした。
745年、貴族や民衆の「元の都に戻りたい」という強い願いに押される形で、聖武天皇はついに平城京へと帰還します。5年間にわたる迷走は終わりましたが、恭仁京への遷都をきっかけに始まった仏教重視の政策は、日本の歴史に深く刻まれました。大仏造立という巨大プロジェクトは平城京で引き継がれ、天平文化が華々しく咲き誇ります。恭仁京への遷都は、天皇が仏教による国づくりへと舵を切る、歴史の決定的な契機となったのです。