平安時代の中期、東北地方の陸奥国(むつのくに:現在の岩手県あたり)では、安倍氏(あべし)という豪族が強大な力を持っていました。彼らは朝廷(京都の政府)に税金を払わず、まるで自分たちの独立国のように振る舞い始めたのです。「勝手なマネは許さん!」と怒った朝廷は討伐軍を送りますが、寒さに強く戦い慣れた安倍氏の圧倒的なパワーの前に大敗北してしまいます。ここから泥沼の戦争、前九年の役がスタートしました。
朝廷の大ピンチに立ち上がったのが、天皇の血を引く武士の名門・源氏の源頼義(みなもとのよりよし)と、その息子で弓の達人である源義家(みなもとのよしいえ)です。のちに「八幡太郎(はちまんたろう)」と呼ばれて恐れられる最強の武将・義家は、この戦いが初陣でした。彼らは朝廷の代表(陸奥守)として東北へ乗り込み、最初は安倍氏のボス・安倍頼時と平和的に仲直りしますが、あるトラブルをきっかけに再び激しい戦争へと突入してしまいます。
戦争が再開すると、源氏の軍勢は東北の厳しい寒さや雪、そして安倍軍のゲリラ戦法に大苦戦します。なんとかボスの頼時を討ち取りますが、跡を継いだ息子の安倍貞任(あべのさだとう)が超強力でした。貞任は源氏軍の裏をかき、「黄海(きのみ)の戦い」で源頼義・義家軍を壊滅的な大敗へと追い込みます。源氏軍は寒さと飢えで兵士が次々と倒れ、命からがら逃げ出すという、まさに絶体絶命の大ピンチに陥ってしまいました。
「自分たちの軍隊だけでは絶対に勝てない…」と悟った源頼義は、プライドを捨てて、お隣の出羽国(現在の秋田県・山形県)で絶大な力を持っていた豪族・清原氏(きよはらし)に泣きつきました。何度も必死にプレゼントを贈り、土下座外交で助けを求めた結果、清原氏のボス・清原武則(きよはらのたけのり)が1万人以上もの大軍を率いて、源氏軍の最強の助っ人として参戦してくれることになったのです!これで戦局は一気にひっくり返ります。
清原氏という強力すぎる味方を得た源頼義・義家の連合軍は、怒涛の勢いで安倍軍の陣地を次々と突破していきます。そして1062年、安倍貞任らが立てこもる最後の要塞「厨川柵(くりやがわのさく:現在の岩手県盛岡市)」を総攻撃しました。激戦の末に柵は炎上し、奮戦した貞任もついに討ち取られます。足掛け12年にも及んだ前九年の役は、こうして朝廷(源氏・清原氏連合軍)の勝利で幕を閉じ、安倍氏は完全に滅亡しました。
ここでテスト対策の豆知識です!この戦いは前九年の役と呼ばれますが、1051年から1062年まで、実は「12年間」も戦っています。「なんで9年なの?」と思いますよね。これは、後から起こった別の戦い(後三年の役)の期間とごっちゃになってしまい、昔の歴史書を書いた人が勘違いして間違えた名前を付けてしまったからだと言われています。歴史のちょっとした面白いミステリーですね。
この長くて苦しい戦いを通じて、源頼義と息子の源義家は、一緒に戦った東日本(東国)の武士たちと強い絆で結ばれました。「源氏の殿様は、身銭を切って俺たちを褒美でねぎらってくれる最高のリーダーだ!」という評判が広まり、武士たちは源氏に強い憧れを抱くようになります。これが、のちに源頼朝が鎌倉幕府を開くための「源氏ブランド」の圧倒的な基礎となり、東国に武士の世の中を作る巨大なドミノの第一歩となったのです。