天下を統一した豊臣秀吉ですが、なかなか自分の子供(跡継ぎ)に恵まれませんでした。そこで、姉の息子である甥の豊臣秀次を養子に迎え、天皇を補佐する国のトップ・関白(かんぱく)の座を譲りました。秀次は、秀吉の代わりに政治を行い、城下町の整備などでも立派な実績を残す優秀な青年でした。ところが、秀吉の側室である淀殿(よどどの)が男の子(のちの豊臣秀頼)を出産したことで、秀次の運命の歯車が大きく狂い始めます。
「自分の本当の子供に天下を継がせたい…!」年老いた秀吉は、実の息子である秀頼を異常なほど溺愛するようになります。そうなると、すでに「次のトップ(関白)」として君臨している秀次の存在が、どうしようもなく邪魔になってきました。周囲も「秀吉様は秀頼様を跡継ぎにしたいのだろう」と忖度しはじめ、秀吉と秀次の関係はどんどんギクシャクしていきます。次第に孤立した秀次は、不安から精神的に追い詰められていったと言われています。
1595年7月、ついに悲劇が起きます。「秀次が謀反(むほん:秀吉への反逆)を企てている!」という噂が流され、秀吉はまともに言い訳を聞くこともなく、激怒して秀次から関白の位を奪い取りました。秀次は和歌山県の高野山(こうやさん)というお寺に追放され、そのわずか数日後に切腹を命じられます(※自ら切腹したという説もあります)。豊臣家を支えるはずだった優秀な若きリーダーは、28歳という若さで無念の最期を遂げたのです。
秀吉の狂気はここで終わりませんでした。「秀次に味方する者は根絶やしにする!」と激怒した秀吉は、秀次の首を京都の三条河原(さんじょうがわら)に晒したうえ、秀次の妻や子供、側室、幼い娘たちなど、なんと30人以上の罪のない家族をその首の前で次々と処刑(斬首)したのです。さらに、秀次と仲が良かった大名たちも次々と処罰されました。当時の常識から見てもあまりにも残酷すぎるこの大粛清劇に、全国の武将たちは心底震え上がりました。
「秀吉様は恐ろしすぎる。明日は我が身かもしれない…」この事件をキッカケに、豊臣家のために一生懸命働いていた大名たちの心は、豊臣家からスーッと離れていきました。有能な身内や味方を自分で殺してしまった秀吉の行動は、豊臣家の力を自ら削り落とす「大自爆」だったのです。この豊臣秀次切腹事件は、数年後の秀吉の死後に徳川家康が権力を握るための大きな隙を生み出し、豊臣家滅亡へと向かう決定的なドミノの1枚目となりました。