1837年、アメリカの商船モリソン号が、嵐で遭難した日本人の漂流民(音吉など)を助けて日本へ送り届けようとやって来ました。しかし、当時の江戸幕府は「外国船が来たら有無を言わさず大砲で追い払え!」という異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)という超強気なルールを出していました。幕府はモリソン号が丸腰で平和的に近づいてきたのにも関わらず、問答無用で大砲を撃ち込み、彼らを追い返してしまったのです。
この事件を後から知ったのが、オランダ語を通して西洋の進んだ知識を学んでいた蘭学(らんがく)の学者たちでした。その代表が、三河国(愛知県)の田原藩の家老だった渡辺崋山(わたなべかざん)と、優秀な医者だった高野長英(たかのちょうえい)です。彼らは「西洋の軍事力は桁違いだ。丸腰の船を砲撃するなんて、怒った外国から日本が滅ぼされてしまう!」と、世界の現実を知らない幕府の対応に強い危機感を抱きました。
彼らは日本の未来を守るため、幕府のやり方を批判する本をこっそり書きました。渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』で「世界の情勢を見ず、無闇に外国を追い払うのは危険すぎる」と説き、高野長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』で「せめて漂流民を助けてくれた恩には報いるべきだ」と訴えました。国を思う純粋な気持ちからの警告でしたが、幕府の政策に口出しすることは当時「絶対にやってはいけない大罪」だったのです。
彼らの書いた本の内容は幕府の保守派の役人にバレてしまい、1839年、幕府は「あいつらは西洋の野蛮な学問に洗脳されて、国を乗っ取ろうとしている!」と難癖をつけ、崋山や長英たち蘭学者を次々と逮捕しました。これが蛮社の獄(ばんしゃのごく)です。「蛮」とは「野蛮な外国の学問」、「社」は「グループ」という意味です。彼らの主張は一切聞き入れられず、厳しい取り調べを受けたのちに重い罰が下されました。
渡辺崋山は自分の藩に迷惑がかかることを恐れて切腹し、高野長英は牢屋から脱走して顔を薬品で焼いてまで逃げ回りましたが、最後は追い詰められて自ら命を絶ちました。彼らの命がけの警告を無視し、優秀な人材を潰してしまった江戸幕府ですが、このわずか十数年後、ペリーの黒船が来航して大パニックに陥ることになります。蛮社の獄は、世界の波に取り残された幕府の限界と、時代の終わりを告げる悲しいドミノだったのです。