1629年、江戸幕府が定めた法律を無視して紫衣(しえ:高僧が着る紫色の法衣)を与えた天皇に対し、第3代将軍・徳川家光がその許可を無効とした事件です。この幕府の強硬な決定に大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうほう)らが猛烈に抗議しましたが、幕府は彼らを流罪(島流し)に処しました。メンツを潰された後水尾天皇は怒って突然退位してしまいます。日本の歴史上、武家政権の法律(禁中並公家諸法度)が天皇の伝統的な権威よりも上であることを明確に示し、幕府の絶対的な支配体制を確立した歴史の重要な分岐点です。
江戸時代以前から、紫色は高貴な色とされ、紫色のお坊さんの服(紫衣)を着ることは仏教界における最高の名誉でした。この名誉ある紫衣を優れたお坊さんに与える特別な権利(勅許)を持っていたのは、日本の伝統的な権威である天皇だけでした。お坊さんたちは、天皇から紫衣を与えられることを一生の誇りとしていたのです。しかし、この古くからの伝統的な権威が、新しく生まれた武家政権である江戸幕府と衝突することになります。
1615年、江戸幕府は天皇や公家(貴族)の行動を厳しく制限するための法律である禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定しました。この法律の中には「紫衣を与える際は、本当に立派なお坊さんかどうかを幕府が厳しく審査する」というルールが盛り込まれました。つまり、幕府は「天皇が勝手に名誉を与えてはいけない。幕府の許可を取りなさい」と、天皇の伝統的な権利に大きな制限をかけたのです。
当時の朝廷は深刻な財政難に苦しんでいました。そこで当時の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は、幕府が定めた法律の手続きを無視して、お坊さんたちに次々と紫衣を与える許可を出し始めます。なぜなら、紫衣を与えられたお坊さんやそのお寺から、朝廷に多額のお礼(献金)が支払われる仕組みになっていたからです。幕府のルールを破ってでも、朝廷はお金を集める必要があり、天皇の権威を必死に保とうとしていました。
この朝廷の行動に激怒したのが、第3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)でした。「幕府が定めた法律である禁中並公家諸法度を無視するとは何事か!」。1627年、幕府は後水尾天皇が幕府の許可なく事前に与えていた数十人分の紫衣の許可を、すべて「無効(取り消し)」にすると一方的に宣言しました。これは、幕府の権力が天皇の決定を根底から覆すという、日本の歴史上かつてない衝撃的な出来事でした。
幕府の一方的な無効化宣言に対して、仏教界から猛烈な抗議の声が上がりました。その中心となったのが、京都の有名なお寺である大徳寺(だいとくじ)の住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)です。「天皇が一度お与えになった名誉を、幕府が後から取り消すなど絶対に許されない!」。沢庵たちは、幕府のやり方は仏教の伝統と天皇の権威を深く傷つけるものだとして、幕府に真っ向から抗議する強烈な意見書を突きつけました。
しかし、武力で天下を支配する江戸幕府は、沢庵たちの抗議を一切受け入れませんでした。幕府の絶対的な権威を示すため、1629年に家光は厳しい処罰を下します。幕府に逆らった沢庵宗彭らを捕らえ、遠く離れた出羽国(現在の山形県)などへ島流し(流罪)にしてしまったのです。これが歴史のテストによく出る紫衣事件(しえじけん)です。幕府の法律は、天皇の決定権や宗教の権威よりも上であることが明確に示されました。
自分が与えた名誉を勝手に取り消された上に、それに抗議した立派なお坊さんたちまで犯罪者として流罪にされてしまった後水尾天皇の怒りと屈辱は、限界に達していました。天皇としてのメンツは完全に丸潰れとなり、朝廷の権威は地に落ちてしまったのです。しかし、圧倒的な軍事力を持つ幕府に対して武力で対抗することは不可能です。そこで天皇は、武力を使わずに幕府に対して最大の「意趣返し(仕返し)」を行う決断を下します。
紫衣事件と同じ1629年、後水尾天皇は幕府に一切の相談もなく、突然「天皇を辞める(譲位する)」と宣言し、わずか7歳の娘に天皇の位を譲ってしまいました。こうして誕生したのが、日本の歴史上久しぶりの女性天皇である明正天皇(めいしょうてんのう)です。幼い女の子を突然天皇にすることで、幕府の政治的な計算を大きく狂わせ、将軍・家光を大いに慌てさせるという、後水尾天皇なりの意地を見せた決死の抵抗でした。
天皇の突然の退位という抵抗はあったものの、結果として紫衣事件は江戸幕府の圧倒的な権力を世に知らしめることになりました。朝廷や寺社は「幕府の定めた法律(法度)には絶対に逆らえない」という冷酷な現実を突きつけられたのです。これ以降、朝廷は政治の実権を完全に失い、幕府の強い監視と統制の下に置かれることになります。将軍が日本の真の支配者として君臨する、江戸時代の盤石な政治システムがここに完成しました。
のちに沢庵宗彭は罪を許され、将軍・家光から深く信頼される相談役へと大出世を果たします。家光が沢庵の才能を愛したこともありますが、天皇側で戦った彼を味方に取り込むことで、幕府の権威をさらに高める狙いがありました。紫衣事件は、日本の伝統的な権威である天皇に対して、武家政権(幕府)が完全に優位に立ったことを証明し、260年続く徳川の平和な時代を支える絶対的な主従関係の端緒を開いた歴史の重要な分岐点です。