1863年頃の京都は、「外国人を力ずくで追い出そう!」と主張する尊王攘夷(そんのうじょうい)の熱狂に包まれていました。その中心にいたのが長州藩(山口県)の武士たちと、三条実美(さんじょうさねとみ)ら急進派の公家たちです。彼らは自分たちの過激な意見を「天皇の命令だ」と偽って幕府に圧力をかけたり、反対する幕府の役人を暗殺(天誅)したりと、京都の町で武力を背景にやりたい放題の行動を繰り返していました。
長州藩たちの暴走に最も怒っていたのが、他ならぬ孝明天皇でした。天皇は外国人は嫌いでしたが、幕府と協力して平和的に解決したい(公武合体)と考えており、長州藩の過激な行動は全く望んでいなかったのです。しかし長州藩はさらに暴走し、「天皇自らが軍隊を率いて外国を討ち払うために出発する」という「大和行幸(やまとぎょうこう)」の計画を勝手に発表してしまいます。天皇は「もはや長州藩を放置しておけない!」と強い危機感を抱きました。
どうにかして長州藩を追い出したい孝明天皇は、京都の治安を守る責任者である京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり:会津藩主)と、薩摩藩(鹿児島県)に極秘のメッセージ(密命)を送りました。薩摩藩はつい先日「生麦事件」の報復でイギリスと戦争(薩英戦争)をしたばかりで、外国の強さを痛感しており、無謀な攘夷には反対の立場でした。こうして、天皇の命を受けた会津藩と薩摩藩による、長州藩排除のための秘密同盟が結成されたのです。
1863年8月18日のまだ夜も明けない早朝、極秘計画は電撃的に実行に移されました。会津藩と薩摩藩を中心とする軍勢が突如として動き出し、天皇の住まいである御所(ごしょ)のすべての門を完全に封鎖し、固く守りを固めたのです。そして、三条実美ら長州藩に味方する急進派の公家たちが御所に入ることを厳しく禁止し、長州藩の部隊に対しても「直ちに御所の警備任務を解くから退去せよ」という天皇の正式な命令を突きつけました。
朝起きて御所に向かおうとした三条実美たちは、門が閉ざされ、銃や大砲を持った会津・薩摩の兵士たちに囲まれているのを見て完全にパニックに陥りました。長州藩の武士たちも「なぜ自分たちが追い出されるのか!」と激怒し、一時は武力衝突の危険が高まりました。しかし、「ここで戦えば天皇に刃を向ける朝敵(国賊)になってしまう」と考えた長州藩のリーダー格である久坂玄瑞(くさかげんずい)らは、涙を飲んで京都からの撤退を決断しました。
長州藩の軍勢は、三条実美ら自分たちを支持していた7人の公家たちを連れて、土砂降りの雨の中を京都から長州(山口県)へと逃げるように落ち延びていきました。これを「七卿落ち(しちきょうおち)」と呼びます。つい昨日まで日本の政治の中心で絶大な権力を振るっていた過激派たちは、たった1日のクーデターによってその地位を完全に奪われ、惨めな逃亡者へと転落してしまったのです。政治の世界の恐ろしい大逆転劇でした。
長州藩を追い出したことで、京都の政治の実権は公武合体(こうぶがったい:朝廷と幕府が協力して政治を行うこと)を目指す勢力が握ることになりました。薩摩藩の島津久光(しまづひさみつ)、会津藩の松平容保、そして将軍後見職の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)らが中心となり、「参預会議(さんよかいぎ)」という新しい会議を作って、無謀な外国排除ではなく、現実的な国づくりを進めようと試みます。
一方、故郷に逃げ帰った長州藩の武士たちの心の中には、かつての仲間であった薩摩藩への激しい憎悪と、自分たちを追い出した会津藩への復讐の炎が燃え盛っていました。「天皇は悪者たちに騙されているのだ!もう一度京都へ攻め上り、天皇の誤解を解いて我々の正しい意見を認めさせよう!」。この過激な思い込みと怒りが、やがて翌年の禁門の変(池田屋事件)というさらなる巨大な流血の悲劇を引き起こす火種となっていきます。
この政変は、幕末の歴史の振り子が大きく揺れた瞬間です。「尊王攘夷」という過激な思想が一度は完全に否定され、現実路線の「公武合体」へとシフトしたからです。しかし、歴史の皮肉なところは、この時に長州藩を追い出した薩摩藩が、数年後にはその長州藩と秘密裏に手を結び(薩長同盟)、今度は一緒に幕府を倒す側に回ることです。昨日の敵は今日の友。幕末の政治情勢がいかに複雑で、目まぐるしく変化していたかがよくわかる事件です。
八月十八日の政変は、単なる権力争いではありません。この事件を通じて、「政治的な意見の違いは、もはや話し合いではなく『武力(軍事力)』で決着をつけるしかない」という危険なルールが、当時の日本社会に決定的に根付いてしまったのです。この日を境に、幕末の争いは言葉での論争から、大砲や銃を使った実際の戦争(内戦)へとそのステージを恐ろしいほどにエスカレートさせていく歴史の決定的な分岐点となりました。