戦国時代の紀伊国(現在の和歌山県)は、大名に支配されない珍しい地域でした。ここには根来寺(ねごろじ)の僧兵たちや、雑賀一揆(さいかいっき)と呼ばれる地侍や農民たちの強力な自治組織が存在し、自分たちのルールで国を治める「独立共和国」のような状態を作っていたのです。 天下統一を目指す者にとって、この自由な独立勢力は非常に厄介な壁でした。
彼らを特別に恐れさせていたのが、当時最新の武器であった「鉄砲」の技術です。雑賀衆(さいかしゅう)は鉄砲の大量生産と高度な射撃戦術をいち早くマスターし、お金で雇われて各地の戦場を渡り歩く最強のプロ傭兵集団として名を馳せていました。かつて、あの織田信長の大軍でさえ、彼らのゲリラ戦法と鉄砲の集中砲火の前に何度も大敗を喫し、完全な支配を諦めたほどの実力を持っていました。
織田信長の死後、後継者争いである「小牧・長久手の戦い」が起こります。この時、雑賀衆や根来衆は徳川家康と手を結び、なんと羽柴秀吉(豊臣秀吉)の本拠地である大坂城のすぐ近くまで攻め込んで、秀吉の背後を激しく脅かしました。この行動が秀吉の逆鱗に触れます。「天下統一のためには、背後の危険な連中を完全に根絶やしにしなければならない」。秀吉は紀伊国の徹底的な討伐を決意します。
1585年(天正13年)3月、家康と一時的に和睦した羽柴秀吉は、ついに紀伊国に向けて軍を動かしました。なんとその数、約10万人。信長でさえ手を焼いた最強の鉄砲集団を一切の妥協なくすり潰すため、秀吉は弟の羽柴秀長をはじめとする主力武将を総動員し、当時の日本で最大級となる圧倒的な大軍勢で和歌山へと雪崩れ込みました。秀吉の容赦ない紀州征伐の幕が切って落とされたのです。
まず秀吉軍の標的となったのは、強大な武力と財力を持っていた巨大な宗教都市・根来寺でした。10万の大軍の前に、数千の僧兵たちは防ぎきれず逃亡し、根来寺は秀吉軍によって徹底的に焼き討ちにされます。何日も燃え続けた炎によって、広大な敷地にあった多数のお堂や文化財が灰となり、戦国時代に猛威を振るった僧兵たちの勢力は、ここで事実上の壊滅へと追い込まれるという凄惨な結末を迎えました。
根来寺の陥落後、追い詰められた雑賀衆の一部は、太田左近(おおたさこん)をリーダーとして太田城(和歌山市)に立てこもり、徹底抗戦の構えを見せました。彼らは約5000人の兵力で、秀吉の10万の大軍を相手に最新の鉄砲を使って必死に防衛します。力攻めでは味方の犠牲が大きくなると判断した秀吉は、ここで彼の最も得意とする恐るべき戦術を実行に移すことになります。それが「水攻め」でした。
秀吉は太田城の周囲およそ6キロメートルにわたって、わずか数日で巨大な堤防(ダム)を築き上げました。そして、近くを流れる紀の川の水をそこへ一気にせき止めて流し込んだのです。平地にあった城はあっという間に濁流に飲み込まれ、まるで湖に浮かぶ孤島のようになってしまいました。城の中は水浸しになり、最大の武器である鉄砲の火薬も湿って使い物にならなくなるという、極めて残酷で計算し尽くされた戦術でした。
およそ1ヶ月にわたる過酷な水攻めと兵糧攻め(食料を絶つこと)により、太田城内では餓死者が続出し、地獄のような惨状となりました。もはや抵抗は不可能と悟った太田左近は、「自分たち首謀者の命を差し出す代わりに、城内にいる農民や女子供の命は助けてほしい」という条件で、ついに秀吉への降伏を決断します。左近ら約50人のリーダーたちは、自ら城を出て切腹し、激しい籠城戦は終わりを告げました。
しかし、秀吉は約束通りに全員を助けるほど甘くはありませんでした。降伏して城から出てきた者たちのうち、武器を持っていた者や反抗的だった農民たち数十人を、見せしめとして容赦なく処刑したのです。さらに紀伊国中の武器を徹底的に没収し、二度と一揆(反乱)が起きないように強力な支配体制を敷きました。こうして、100年以上続いた紀伊国の自由な「独立共和国」の歴史は、武力によって完全に終焉を迎えました。
この紀州征伐によって、信長さえも成し遂げられなかった近畿地方の完全な平定が達成されました。背後の不安を完全に拭い去った秀吉は、この直後に四国の長宗我部氏を攻める「四国征伐」へと向かい、天下統一へのスピードを一気に加速させていきます。反抗する者は徹底的に潰すという豊臣政権の恐ろしい軍事力と統率力を見せつけ、秀吉の絶対的な権力を確立するための、歴史の決定的な分岐点となった戦いでした。