平安時代末期、平清盛(たいらのきよもり)を中心とする平氏は「平家にあらずんば人にあらず」と豪語するほど、日本の政治と富を完全に独占していました。清盛は天皇の祖父となって絶対的な権力を振るい、日宋貿易で莫大な利益を得ていました。しかし、政治の表舞台から追いやられた伝統的な貴族や寺社、そして地方で苦しい生活を強いられていた武士たちの間には、激しい不満と怒りのマグマが限界まで溜まっていたのです。この反平氏の機運が、やがて日本全体を巻き込む巨大な内乱の引き金となります。
1180年5月、平氏の独裁に反発した後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)と、源氏の長老・源頼政(みなもとのよりまさ)が、平氏打倒の兵を挙げました。彼らは全国の源氏に向けて「今こそ立ち上がり、平氏を討ち滅ぼせ」という天皇の正式な命令書(令旨:りょうじ)を密かにバラまいたのです。以仁王と頼政は宇治川の戦いで敗れて討死しますが、この令旨は全国に散らばっていた源氏の武士たちを一斉に目覚めさせました。これが、6年間に及ぶ治承・寿永の乱(源平合戦)の決定的な契機となります。
令旨を受け取った伊豆の流人・源頼朝(みなもとのよりとも)も、北条氏らの支援を受けてついに挙兵しました。最初は石橋山の戦いで大敗したものの、関東の武士たちを次々と味方につけて勢力を拡大し、富士川の戦いで平氏の討伐軍をあっけなく退却させます。頼朝は鎌倉を本拠地として、関東地方を独自の支配下に置きました。一方、焦る平清盛は福原京(神戸)への遷都を強行するなど混乱を極めますが、翌1181年に謎の高熱を出して病死してしまいます。巨大な指導者を失い、平氏の運命は暗転し始めました。
頼朝と同時期に信濃国(長野県)で挙兵したのが、頼朝の従兄弟である源義仲(みなもとのよしなか:木曾義仲)です。荒々しい山育ちの義仲は北陸地方へ進軍し、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで、牛の角に松明を結びつけて敵陣に突撃させる「火牛の計」などの奇襲を用いて平氏の大軍を打ち破りました。勢いに乗った義仲は一気に京都へと攻め上り、平氏一門を都から西日本へと追い出すことに成功します。義仲は「朝日将軍」と呼ばれ、一時は源平合戦の歴史の主役へと躍り出ました。
平氏を追い出して京都に入った義仲でしたが、彼の率いる軍勢は都のルールを知らず、食料を奪うなどの乱暴狼藉を働いて人々の激しい反感を買ってしまいます。さらに後白河法皇とも対立し、御所を武力で襲撃して法皇を幽閉するという暴挙に出ました。これに激怒した法皇は、鎌倉で勢力を固めている源頼朝に対して「無法者の義仲を討伐せよ」と命令を下します。平氏を完全に倒す前に、源氏同士の骨肉の権力争いという、血塗られた仲間割れが始まってしまったのです。
頼朝は、義仲を討伐するために二人の弟、源範頼(のりより)と源義経(みなもとのよしつね)を軍の司令官として京都へ派遣しました。奥州(東北地方)で育ち、天才的な戦の才能を持っていた義経は、宇治川の戦いで義仲の軍勢を鮮やかに打ち破り、義仲を討ち取ります。こうして源氏の内部抗争を見事に制した頼朝軍は、いよいよ西日本で勢力を立て直しつつあった平氏本体との最終決戦へと向かっていきます。戦の天才・義経の伝説的な快進撃と悲劇の幕開けでもありました。
1184年、現在の神戸市で行われた一ノ谷の戦いで、義経はその天才的な戦術を爆発させます。海沿いに強固な陣地を築いていた平氏に対し、義経は誰も通れないような険しい崖(鵯越:ひよどりごえ)の上から、馬に乗ったまま一気に駆け下りて背後から奇襲をかけるという、常識外れの作戦(逆落とし)を実行しました。背後を突かれて大パニックに陥った平氏軍は壊滅的な大敗北を喫し、多くの有力な若き武将たちを失って、さらに西へと悲惨な逃亡を余儀なくされました。
翌1185年、四国の香川県で行われた屋島の戦いでも、義経の奇襲作戦が冴え渡ります。暴風雨の中で少数の船で決死の覚悟で海を渡り、背後から平氏の拠点を焼き討ちにしたのです。この戦いでは、海上の船に掲げられた扇の的を、源氏の武将・那須与一(なすのよいち)が馬の上から見事に弓矢で射抜いたという、有名な美しい逸話が残されています。陸と海の戦いで連戦連勝を重ねる義経の神がかった采配の前に、平氏はついに本州や四国に居場所を失い、西の果ての海へと追い詰められました。
1185年3月24日、山口県の関門海峡で、源平合戦の最終決戦である壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)が行われました。海戦を得意とする平氏でしたが、義経の常識破りな戦術や、潮の流れの変化によって完全に追い詰められます。「もはやこれまで」と悟った清盛の妻・二位尼は、まだ幼い安徳天皇と三種の神器を抱きかかえ、「波の下にも都がございます」と冷たい海へ身を投げました。こうして栄華を極めた平氏一門は、海のもくづとなって滅亡したのです。
6年に及んだ治承・寿永の乱は、源氏の完全勝利で幕を閉じました。しかし、最大の功労者である義経は、勝手な行動を咎められて兄・頼朝と対立し、やがて悲劇的な最期を遂げることになります。一方、この反乱の鎮圧を名目として全国に守護・地頭を置く権利を手に入れた頼朝は、1192年に征夷大将軍となり、本格的な武家政権である鎌倉幕府を開きました。天皇や貴族から武士へと国家の支配者が完全に移り変わる、日本の歴史の最大の転換点となったのです。