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享保の打ちこわし きょうほうのうちこわし 運動

🕒 1733年1月26日
📍 場所: 東京都 江戸(東京都)
1733年、享保の大飢饉による米不足と価格の高騰に苦しむ江戸の民衆が、米を買い占めていた悪徳商人の家を襲撃・破壊した事件です(打ちこわし)。将軍・徳川吉宗の時代、西日本での深刻な不作が原因で江戸の米の値段が急上昇しました。幕府の対応が遅れる中、怒りを爆発させた都市の貧しい人々が集団で実力行使に出ました。これが江戸で起きた最初の「打ちこわし」とされ、幕府の経済政策に大きな課題を突きつける歴史の分岐点となりました。
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吉宗の悩みと「米将軍」

江戸時代の中期、幕府の財政は深刻な赤字に陥っていました。そこで第8代将軍・徳川吉宗は、「享保の改革」という大がかりな政治改革をスタートさせて財政の立て直しに必死に取り組みました。当時は新田開発が進んで米が大量にとれるようになり、米の値段ばかりが下がって他の物価が高い「米価安の諸色高」という現象が起きていました。米を売って生活していた武士たちは貧窮していたため、吉宗はどうにかして米の値段を引き上げようと連日のように試行錯誤を繰り返し、世間からは皮肉を込めて「米将軍」と呼ばれていました。
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1732年、享保の大飢饉の発生

しかし1732年、米の値段を上げたいと願う吉宗の苦労をあざ笑うかのように、予期せぬ大災害が起こります。西日本を中心に「ウンカ」という害虫が大量発生し、稲を根こそぎ食い荒らして全滅させてしまったのです。さらに長雨などの悪天候も重なり、かつてないほどの大凶作となりました。これが西日本一帯に数万人とも言われる餓死者を出すことになった享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)です。皮肉なことに、米の収穫量が激減したことで、吉宗が望んでいた「米の値上がり」が最悪の形で現実のものとなってしまったのです。
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江戸の町を襲う米不足とパニック

西日本で米が全くとれなくなったため、全国の物資が集まる商業の中心地・大坂(大阪)でも米が極端に不足しました。その結果、大都市である江戸に運ばれてくる米の量も激減してしまいます。すると、江戸の町ではあっという間に米の値段が跳ね上がり、普段の何倍もの恐ろしい価格になってしまいました。その日暮らしの仕事でなんとか生計を立てていた江戸の長屋の貧しい人々(町人)は、毎日の主食である米を少しも買うことができなくなり、たちまち明日の命も知れぬ飢えと死の恐怖に直面することになったのです。
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悪徳商人・高間伝兵衛の買い占め

江戸の町民たちがその日のご飯にもありつけず苦しむ中、この大パニックを逆手にとってボロ儲けを企む悪徳商人が現れました。江戸で米の流通を牛耳っていた豪商の高間伝兵衛(たかまでんべえ)らです。彼らは「これから米の値段はまだまだ上がるはずだ」と予測し、倉庫にたくさんある米をわざと売りに出さず、密かに隠して買い占めを行いました。商人が米を出し惜しみして流通が完全にストップしたことで、江戸の米価は天井知らずの異常な高騰を続け、貧しい人々の生活をさらに容赦なく追い詰めていったのです。
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幕府の対応の遅れと民衆の絶望

あまりの米の高さに買えなくなった民衆は、「倉庫に米があるのに、商人がわざと隠して値段を上げている!」と幕府に必死に訴えました。しかし、幕府の対応は致命的に遅れてしまいます。もともと「米の値段を高くしたい」と考えていた幕府の役人たちは、商人の身勝手な買い占めをすぐには厳しく取り締まらなかったのです。飢えに苦しむ自分たちを見捨てるかのような幕府の鈍い動きと、一部の商人だけが儲かる理不尽な状況に、民衆の不満と怒りのマグマはついに爆発寸前まで膨れ上がり、江戸の町は不穏な空気に包まれました。
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1733年、怒りの民衆が立ち上がる

1733年(享保18年)1月、ついに怒りの限界を突破した江戸の民衆たちが、実力行使のために立ち上がりました。約1700人とも言われる大群衆が、米を買い占めて暴利をむさぼっていた高間伝兵衛の屋敷や米問屋を大勢で取り囲んだのです。彼らは「隠している米を出せ!値段を下げろ!」と激しく叫びながら、門を打ち破って屋敷の中へと怒涛のように雪崩れ込みました。これが、江戸の歴史上初めて発生した大規模な打ちこわし(うちこわし)の瞬間であり、幕府の足元で起きた前代未聞の暴動でした。
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「打ちこわし」の独特なルール

この打ちこわしには、ただの強盗や略奪とは違う、民衆なりの明確な「独特のルール」が存在していました。群衆は屋敷の戸や障子などの建具、家財道具、商品の米俵などを徹底的に破壊して川や道に投げ捨てましたが、不思議なことにお金や金目のものを自分のポケットに盗んで持ち去ることはしなかったのです。彼らの目的は物を盗むことではなく、あくまで「民衆を苦しめて悪いことをして儲ける商人への、世直しのための正当な天罰(制裁)」を世間に強くアピールすることだったからです。
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パニックの連鎖と江戸の混乱

高間伝兵衛の屋敷への襲撃を皮切りに、打ちこわしの波は瞬く間に江戸市中の他の米屋や裕福な商人たちの家にも次々と連鎖していきました。数日間にわたって江戸の町は暴動と破壊の嵐に包まれ、大混乱に陥ります。これまで「お上(幕府)」には絶対に逆らえないと信じられていた無力な都市の貧民たちですが、彼らが集団で固く団結すれば、幕府をも震撼させる強大な武力(暴力)を発揮できるという恐ろしい事実を、自らの手で堂々と証明してしまったのです。社会の底辺からの強烈な反逆でした。
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慌てる幕府の鎮圧と経済対策

江戸のど真ん中で起きた大暴動に、事態の深刻さをようやく悟った幕府は大慌てになります。すぐさま町奉行に命じて役人を出動させ、暴動を力で鎮圧しました。しかし、ただ武力で暴れる人々を抑え込むだけでは根本的な飢えは解決しません。幕府は急いで「米を隠さずに適正な価格で売るように」と商人たちに厳しく命令を出し、幕府の倉庫にあった備蓄米を安く放出するなどの緊急対策を実行しました。これらの対応によって、江戸の町を揺るがした米騒動はようやく鎮静化へと向かうことになりました。
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幕府の限界と新たな火種

初めての享保の打ちこわしは、江戸幕府の首脳陣に計り知れない衝撃を与えました。武士だけでなく、都市に大量に住む貧しい民衆の生活を守らなければ、たちまち暴動が起きて社会の秩序が崩壊してしまうという恐ろしい現実を突きつけられたからです。幕府はその後も経済政策に苦心しますが根本的な解決には至らず、これ以降、幕末に向けて全国各地で「打ちこわし」や「百姓一揆」が頻発するようになります。幕府の支配のほころびが見え始める、歴史の決定的な契機となったのです。
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