明治維新後、新政府は「四民平等」を掲げ、かつて支配階級だった士族(元武士)の特権を次々と奪いました。1876年の廃刀令(刀を持つ権利の没収)や秩禄処分(給与の打ち切り)により、士族たちの生活は困窮し、プライドは深く傷つけられます。「命がけで幕府を倒したのに、この扱いはなんだ!」と、全国の士族たちの不満は限界まで膨れ上がり、各地で反乱(士族の反乱)が続発する不穏な空気に包まれていました。
一方、明治維新の最大の英雄である西郷隆盛は、新政府の路線(征韓論を巡る対立)に敗れて政府を去り、故郷の鹿児島で「私学校」を設立して若者たちの教育に専念していました。西郷は政府に不満を持つ士族たちを抑えようと努めていましたが、全国から西郷を慕う血気盛んな若者たちが次々と鹿児島に集結し、皮肉にも私学校は反政府勢力の巨大な拠点へと変貌していってしまったのです。
1877年1月、新政府が鹿児島の武器弾薬を密かに運び出そうとしたことに私学校の生徒たちが激怒し、政府の武器庫を襲撃する事件を起こしてしまいます。さらに「政府の密偵が西郷の暗殺を企んでいる」という噂が流れ、生徒たちの怒りは頂点に達しました。事態の収拾が不可能と悟った西郷は、「お前たちの命、俺が預かろう」と、愛する教え子たちと共に新政府と戦う苦渋の決断を下しました。
1877年2月、西郷隆盛を総大将とする約1万3000人の薩摩軍が鹿児島を出発し、東京へ向けて北上を開始しました。彼らは幼い頃から厳しい訓練を受けた、日本最強の戦闘プロフェッショナル(サムライ)集団です。「西郷さんがついに立ち上がった!」というニュースは瞬く間に全国を駆け巡り、政府に不満を持っていた各地の士族たちが次々と合流して、薩摩軍は数万人規模の大軍勢へと膨れ上がりました。
快進撃を続ける薩摩軍の前に立ちはだかったのが、九州最大の軍事拠点・熊本城でした。政府軍の谷干城(たにたてき)が守るこの城を落とそうと、薩摩軍は総力を挙げて猛攻撃を仕掛けます。しかし、かつて加藤清正が築いた難攻不落の要塞はビクともしませんでした。西郷は「おいどんは官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」と語ったと伝えられ、この熊本城での長期にわたる足止めが薩摩軍の勢いを削ぐ致命的な原因となりました。
熊本城を救援するために北から進軍してきた政府軍と、それを迎え撃つ薩摩軍が激突したのが「田原坂(たばるざか)」です。ここでの戦いは、西南戦争の中で最も凄惨な激戦となりました。連日の冷たい雨で薩摩軍の旧式銃が使えなくなる中、刀一本で突撃してくる薩摩のサムライたちに対し、政府軍は圧倒的な弾薬量と大砲で応戦。空中で敵と味方の弾がぶつかって合体した「かち合い弾」が多数見つかるほどの、すさまじい死闘でした。
田原坂の激戦を制したのは、近代的な装備を持つ政府軍でした。この政府軍の主力は、徴兵制によって集められた元「農民」や「町人」たちです。かつては「戦いは武士の特権であり、農民は戦争に向かない」と信じられていました。しかし、最新のライフル銃と西洋式の訓練を受けた平民の軍隊が、刀と誇りを武器にする日本最強の武士集団を正面から打ち破ったのです。これは「武士の時代の完全な終焉」を意味する決定的な出来事でした。
田原坂で決定的な敗北を喫した薩摩軍は、九州の険しい山中を逃げ回りながらも数ヶ月にわたって抗戦を続けました。しかし、政府軍の圧倒的な物量と包囲網の前に兵士の数は次々と減り、弾薬も食料も完全に尽き果ててしまいます。1877年9月、西郷隆盛とわずか数百名となった生き残りの将兵たちは、ついに故郷・鹿児島を見下ろす城山(しろやま)へと追い詰められ、最後の決戦の時を迎えることになります。
1877年9月24日、数万の政府軍による城山への総攻撃が開始されました。絶望的な状況の中、西郷は銃弾を浴びて倒れ、「晋どん、もうここらでよか(もうこの辺でいいだろう)」と別府晋介に声をかけ、静かに切腹してその生涯を閉じました。政府軍を実質的に指揮し、かつての親友を追い詰めた大久保利通は、西郷の死を知って号泣したと伝えられています。明治維新を共に成し遂げた二人の英雄の悲劇的な結末でした。
西南戦争で最強の薩摩軍が敗れたことは、日本全国の士族たちに「もはや武力で政府を倒すことは絶対に不可能である」という現実を突きつけました。これにより士族の武力反乱は完全に終息します。そして、人々の政治への不満は「刀」から「言論」へと戦い方を変え、「国会を開いて自分たちの意見を政治に反映させよう」と主張する自由民権運動へと発展していきます。日本の近代化と民主化を加速させる、歴史の決定的な分岐点となったのです。