1336年から1392年まで、日本に「北朝(京都)」と「南朝(吉野)」という2つの朝廷が同時に存在し、約60年間も争い続けた大戦乱の時代です。建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野へ逃れて南朝を開き、足利尊氏が京都に室町幕府と北朝を立てたことで始まりました。全国の武士たちは領地を守るために味方をコロコロと変えながら戦い続けました。最終的には3代将軍・足利義満の圧倒的な力によって、1392年に南北朝の合一が果たされ、長い争いは幕を閉じました。
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の「建武の新政」は武士たちの不満を買い、わずか数年で崩壊しました。怒った武士のリーダー・足利尊氏(あしかがたかうじ)は京都を制圧し、新しい天皇を立てて室町幕府を開きます(北朝)。しかし、京都を追い出された後醍醐天皇は南の吉野(奈良県)の山奥へ逃げ込み、「三種の神器を持っている私こそが本物の天皇だ!」と主張しました(南朝)。こうして日本に2人の天皇と2つの朝廷が同時に存在するという、前代未聞の異常事態がスタートしたのです。
2つの朝廷ができたことで、全国の武士たちは大パニック!「一体どっちの命令を聞けばいいんだ?」と悩みます。しかし、やがて武士たちはこの状況をズル賢く利用し始めました。「北朝の味方になるから、この領地を認めてくれ!」「断られたから、明日から南朝に寝返るぞ!」と、自分たちの土地や利益を守るために、まるでオセロのようにコロコロと味方を変えながら戦ったのです。そのため、どちらかが完全に勝つことができず、戦乱はダラダラと長引いていきました。
北朝(幕府)を有利に進めていた足利尊氏ですが、なんと今度は幕府の内部で激しい仲間割れが起きてしまいます。将軍である尊氏を支えていた弟の足利直義(あしかがただよし)と、幕府の軍事トップである高師直(こうのもろなお)が対立したのです。この身内ゲンカは観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれ、全国の武士を巻き込む大戦争に発展!尊氏と直義は、相手を倒すためにお互いに一時的に敵である南朝に降伏するというプライドを捨てた無茶苦茶な作戦をとり、世の中はさらにカオスな状態に陥りました。
圧倒的に不利だった吉野の南朝ですが、言葉の力で北朝に立ち向かった人物がいました。それが南朝のスーパー軍師・北畠親房(きたばたけちかふさ)です。彼は関東や東北地方の武士たちを南朝の味方につけるため、戦場の城に立てこもりながら『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』という歴史書を書き上げました。「日本の天皇は神の時代から血筋が途切れていない!だから三種の神器を持つ南朝の後醍醐天皇の血統こそが絶対に正しいのだ!」と熱く説き伏せ、南朝の正当性を強烈にアピールしたのです。
この大混乱の時代、古い常識やルールを完全に無視して、自分の実力とセンスだけで派手に生きる武士たちが登場しました。彼らは「ばさら(婆娑羅)」と呼ばれました。その代表格が佐々木道誉(ささきどうよ)です。ド派手な衣装を着て、天皇や貴族の権威を全く恐れず、勝手に他人の荘園(領地)を奪い取ったり、超豪華なパーティーを開いたりしてやりたい放題!「実力さえあれば何をしてもいい」という下剋上(げこくじょう)の空気が、この頃から日本中に蔓延し始めていたのです。
戦乱の舞台は京都周辺だけではありません。南朝の後醍醐天皇は、自分の息子である懐良親王(かねながしんのう)を「征西将軍」として九州へ派遣しました。彼は九州の有力な武士たちを見事にまとめ上げ、なんと一時期は九州のほぼ全域を南朝の支配下に置くという大快進撃を見せます!さらに、中国(明)の皇帝からも「日本の代表」として認められるほど、九州において独立国のような強大なパワーを誇り、北朝の幕府軍を大いに苦しめました。
ダラダラと続いた60年の争いに終止符を打ったのが、室町幕府の3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)です。彼はこれまでの将軍とは違い、圧倒的なカリスマ性と軍事力を持っていました。幕府に反抗する有力な守護大名たちを、巧みな罠にハメて次々と討伐!誰も逆らえない強大な権力を手に入れると、京都の「室町」という場所に超豪華な邸宅(花の御所)を建設しました。ここでついに、長年の夢だった「日本統一」に向けての最終プロジェクトを始動させます。
1392年、絶対的なパワーを持った足利義満は、衰えきっていた南朝に対して「そろそろ仲直りしませんか?」と交渉を持ちかけます。「三種の神器を北朝に渡してくれたら、これからは北朝と南朝の血筋から交互に天皇を出しましょう」という魅力的な条件でした。これに南朝の後亀山天皇が同意し、ついに吉野から京都へと神器が返還されました。こうして約60年続いた2つの朝廷は一つにまとまり(南北朝の合一)、日本はようやく平和な時代を取り戻したのです。
南北朝の合一で平和になった…と思いきや、実は幕府のトップである義満は最初から約束を守る気などありませんでした。南朝から神器を受け取ると「交互に天皇を出す」という約束をあっさり破り、その後もずっと北朝の血統だけを天皇にし続けたのです。「騙された!」と怒った南朝の生き残りたちは、その後も100年以上にわたって「後南朝(ごなんちょう)」として幕府へのゲリラ的な反乱を繰り返し、三種の神器の一つを奪い去るという大事件まで起こすことになります。
戦乱続きで最悪の時代に見える南北朝時代ですが、実は日本の文化が大きく進化した時代でもあります。身分が入り乱れたことで、貴族の上品な文化と武士の力強い文化が混ざり合いました。みんなで集まってお茶を飲んで楽しむ「闘茶(とうちゃ)」や、上の句と下の句を別々の人が詠んで繋げていく「連歌(れんが)」などが大流行!現代の日本人が楽しんでいる「みんなでワイワイ楽しむ和風の文化」のルーツは、このカオスな南北朝時代に作られていったのです。