1853年、約200年続いた平和な江戸の町に激震が走ります。浦賀沖(神奈川県)に、煙をモクモクと吐き出しながら海の上を進む巨大な真っ黒い船が4隻も現れたのです!これがアメリカ海軍のペリーが率いる東インド艦隊、通称「黒船」です。風の力で動く帆船しか知らない当時の日本人にとって、風がなくても自力で波を切って進む巨大な蒸気船は、まるで「海から現れた化け物」のように恐ろしい存在として目に映りました。
そもそも、なぜアメリカはるか遠い日本にやってきたのでしょうか?実は当時、アメリカはランプの油などに使うため、太平洋で盛んに捕鯨(クジラ漁)を行っていました。しかし、長旅で船に積める水や食料には限界があります。そこで、太平洋の真ん中にある日本を「クジラ漁の補給基地」として利用し、さらに大きなビジネス市場である清(中国)との貿易の中継地点にしたいと考え、鎖国をやめて開国するよう求めてきたのです。
ペリーは日本の法律(鎖国)などお構いなしです!「外国船は長崎へ行け」と指示する幕府の役人を完全に無視し、「偉い役人が出てこないなら、この大砲で江戸の町を直接攻撃するぞ!」と、船の巨大な大砲をチラつかせて強気な態度で脅しをかけました。これを軍事力を使った「砲艦外交」と呼びます。圧倒的な武力を突きつけられた江戸幕府は、ついにペリーが持ってきたアメリカ大統領の国書(手紙)を受け取るしかありませんでした。
手紙を受け取ったものの、当時の幕府のトップである老中・阿部正弘らは大パニックに陥ります。「大砲が怖いから開国すべきか、それとも武士の意地で戦争して追い払うか」と意見が真っ二つに割れ、全く決断できません。この幕府の弱腰な態度を見たペリーは、「急には決められないだろうから、1年後にまた返事を聞きに来るぞ!」と余裕の言葉を残し、日本を去っていきました。ペリーが去った後も、江戸の町は恐怖に包まれていました。
「1年後にまたあの船がやってくる!」と焦った幕府は、急いで江戸湾の海防(海の防衛)を強化します。海の上に急ピッチで人工の島を作り、そこに外国船を撃ち払うための大砲をずらりと設置しました。これが「台場(だいば)」です。現在、東京の有名な観光スポットやテレビ局がある「お台場」という地名は、実はペリーの黒船を迎え撃つために作られた、この砲台の跡地が由来になっています。歴史は現代としっかりと繋がっているのです。
幕府が一生懸命に大砲や陣地を作って防衛の準備を進めていた1854年初頭、絶望的なニュースが飛び込みます。「1年後」と約束していたはずのペリーが、なんとたった半年で再び江戸湾に戻ってきたのです!しかも今度は、前回の倍以上である7隻(のちに9隻)もの大艦隊にパワーアップしていました。「早く手紙の返事をしろ!」と迫るペリーの強烈なプレッシャーの前に、幕府の必死の防衛計画は全くの無意味となってしまいました。
圧倒的な大艦隊を前に「これ以上断れば確実に戦争になり、日本は滅ぼされる」と悟った幕府は、ついにペリーの要求を受け入れます。1854年3月、横浜で日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)という条約を結びました。これにより、下田(静岡県)と箱館(北海道)の2つの港を開いて水や石炭を補給することが決定します。約200年続いた日本の「鎖国」体制は、アメリカの軍事力によってあっけなく終わりを告げたのです。
条約を結んだ際、ペリーは日本人にアメリカの進んだテクノロジーを披露しました。その代表が「蒸気機関車の模型」と「モールス信号機(電信機)」です。時速約30kmで走るミニチュアの汽車にまたがって喜ぶ武士たちや、一瞬で遠くにメッセージを届ける通信機を見た日本人は、西洋の圧倒的な科学力に大ショックを受けました。「このままでは日本は世界に取り残される」と痛感し、必死に西洋の学問を学び始めるキッカケになります。
ペリー来航と開国のニュースは、日本中の武士たちに凄まじい衝撃を与えました。「幕府は外国の脅しに屈した!もう幕府には任せておけない!」「天皇を敬い、外国を追い払え(尊王攘夷)!」という過激な声が各地で爆発します。吉田松陰(よしだしょういん)が黒船に密航しようとしたように、若き志士たちが国の未来を憂いて命がけで動き始めました。黒船は、古い日本を壊し、新しい日本を作るための強烈なエネルギーを生み出したのです。
たった4隻の黒船から始まったこの事件は、日本の歴史を根本からひっくり返しました。もしペリーが来ていなければ、日本は平和ボケしたまま、あっという間に欧米の植民地にされていたかもしれません。外からの巨大な軍事的な圧力(外圧)によって強引に目を覚まされた日本は、ここからわずか15年という猛スピードで幕府を倒し、近代国家である明治政府へと生まれ変わっていくことになります。まさに激動の幕末の端緒を開いた事件でした。