ホーム > 勉強ルーム > 日本史 年表 > 藤原仲麻呂の乱

藤原仲麻呂の乱 ふじわらのなかまろのらん

🕒 0764年09月 🦌 奈良時代
📍 場所: 滋賀県 近江国(現在の滋賀県・琵琶湖周辺など) 👤 関連: 藤原仲麻呂
764年、奈良時代の政治のトップに立っていた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が、権力を取り戻すために起こした大規模な反乱です。天皇から「恵美押勝」という特別な名前をもらっていたため、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)とも呼ばれます。引退したはずの孝謙上皇とお坊さんの道鏡(どうきょう)が政治に口を出してきたことに怒り、軍隊を動かしてクーデターを狙いました。しかし、天才軍師である吉備真備(きびのまきび)の活躍によって反乱は失敗。仲麻呂一族は滅亡し、これによって道鏡の権力が一気にトップへと駆け上がる歴史の重要ドミノとなりました。
スポンサーリンク
👑

絶頂期の仲麻呂と「恵美押勝」

奈良時代の後半、藤原仲麻呂は自分と仲の良い淳仁天皇(じゅんにんてんのう)を即位させ、まさに権力の絶頂にいました。その仕事ぶりを高く評価された仲麻呂は、「恵美押勝(えみのおしかつ:いつも笑顔で困難に打ち勝つ、という意味)」という超名誉な名前をもらい、独自の金貨を作ったり、国の法律を自分の好きなように変えたりと、誰も逆らえない独裁者のようなパワーを持っていました。
💔

怪僧・道鏡の登場と上皇の心変わり

しかし、仲麻呂にとって最悪の邪魔者が現れます。引退していたはずの前の天皇、孝謙上皇(こうけんじょうこう:女性の上皇)です。彼女が病気で苦しんでいた時、看病をして治したのが道鏡(どうきょう)というお坊さんでした。上皇は道鏡をすっかり気に入り、「私が政治の重要なことを決める!」と宣言して、現役の天皇(淳仁天皇)や仲麻呂の政治に強烈な口出しを始めたのです。
😡

「お坊さんのくせに!」仲麻呂の焦り

「皇族や貴族でもないただのお坊さん(道鏡)が、政治の実権を握るなんて絶対に許せない!」と仲麻呂は激怒しました。さらに、自分の息子たちが次々と病死してしまい、「このままでは藤原氏の権力が奪われてしまう」という強烈な焦りを感じます。そこで仲麻呂は、軍隊を動かして上皇と道鏡から一気に政権を奪い返すという、危険なクーデター(反乱)を計画したのです。
😱

密告!バレてしまったクーデター

764年9月、仲麻呂は計画を実行に移そうと軍事訓練を始めます。しかし、ここで致命的なミスが起きます。仲麻呂の味方だと思っていた人間が、上皇側にこっそり「仲麻呂が反乱を企んでいます!」と密告してしまったのです。これを察知した孝謙上皇は、仲麻呂よりも一足早く動き出し、天皇の権力の証である「駅鈴(えきれい:全国の馬を動員できるベル)」を奪い取り、仲麻呂を「反逆者」として指名手配しました。
🧠

天才軍師・吉備真備の完璧な作戦

焦った仲麻呂は、自分の勢力圏である近江国(現在の滋賀県)へ逃げて体勢を立て直そうとします。しかし、上皇側には最強の助っ人がいました。遣唐使として中国で本場の兵法(軍事戦略)を学んできた天才学者、吉備真備(きびのまきび)です。真備は仲麻呂が逃げるルートを完全に読み切り、先回りして橋を焼き落とし、交通の要所をすべて封鎖するという完璧な作戦で仲麻呂軍を袋小路へと追い込みました。
⚔️

琵琶湖の悲劇!仲麻呂の最期

退路を断たれ、琵琶湖のほとりで孤立してしまった仲麻呂軍は、上皇軍の激しい攻撃を受けて壊滅状態に陥ります。最後は船に乗って湖を渡って逃げようとしましたが、逆風に阻まれて失敗。ついには上皇軍に捕らえられ、仲麻呂はその場で妻や子供たちと一緒に斬り殺されてしまいました。栄華を極めた権力者の、あまりにもあっけない悲劇的な最期でした。
👑

特大ドミノ!道鏡の独裁スタート

この藤原仲麻呂の乱恵美押勝の乱)が失敗に終わったことで、歴史は大きく動きます。仲麻呂と仲が良かった淳仁天皇は淡路島へ流罪(島流し)となり、孝謙上皇が再び「称徳天皇」として天皇の位につきました。そして、一番の邪魔者がいなくなった道鏡は、天皇とほぼ同じレベルの役職(法王)に大出世し、次の事件(宇佐八幡宮神託事件)へと繋がる恐ろしい独裁政治をスタートさせたのです。
スポンサーリンク
スポンサーリンク