江戸時代の初め、日本人は東南アジアへ大きな船を出して活発に貿易(朱印船貿易)を行い、町には莫大な富を築く商人たちがたくさんいました。しかし、幕府にはどうしても解決したい大きな悩みがありました。それは、貿易と一緒にヨーロッパから入ってくる「キリスト教」です。「神様の下では全員が平等である」という教えは、厳しい身分制度で国をまとめたい幕府にとって、最悪の場合は国を乗っ取られかねない非常に恐ろしい思想だったのです。
「キリスト教を完全にシャットアウトするには、外国との行き来を幕府が完全にコントロールするしかない!」と考えた第3代将軍の徳川家光は、1631年に新しいルールを作りました。これまで海外へ行くのに必要だった「朱印状」という幕府の許可証に加えて、幕府のトップの役人(老中)が発行する「老中奉書(ろうじゅうほうしょ)」という、さらに審査が厳しい追加の許可証も必要にしたのです。これが海外への扉を閉める第一歩でした。
この厳しいダブルの許可証を持った船だけを奉書船(ほうしょせん)と呼びます。この許可を両方ともらうのはものすごく難しく、幕府と特別に仲が良い一部の特権的な大商人しか海外に行けなくなってしまいました。「勝手に海外に行って、危険な思想(キリスト教)を持ち帰ったり、大儲けして幕府に逆らうような強い軍事力を持ったりするのは絶対に許さないぞ!」という、幕府の徹底した防衛策と警戒心の表れでした。
制限はこれから海外へ行く人だけでなく、すでに海外にいる人たちにも向けられました。なんと幕府は「海外に5年以上住んでいる日本人は、もう日本に帰ってきてはいけない」という冷酷なルールを追加したのです。当時、東南アジアの各地には日本人が作った町(日本町)があり、大勢の人が暮らしていました。しかし、長く外国の文化に触れた彼らがキリスト教徒になっているかもしれないと疑い、彼らを事実上、日本から切り捨ててしまったのです。
この1631年の制限をキッカケにして、幕府は次々と厳しいルールを連発していきます。わずか数年後には日本人の海外渡航が「完全に禁止」されてしまい、やがてポルトガル船などの外国船も日本から追い出されて、いわゆる鎖国(さこく)の体制が完成することになります。日本がここから約200年もの間、世界から重い扉を閉ざして独自の平和な社会と文化を育んでいくことになる、長く険しい道のりのスタート地点がこの第1次鎖国令だったのです。