1333年、流罪になっていた隠岐島から脱出した後醍醐天皇は、武士たちに「鎌倉幕府を倒せ!」と呼びかけました。これに応じた足利尊氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とし、約150年続いた鎌倉幕府はついに滅亡します。後醍醐天皇は念願だった「天皇が自ら政治を行う」という夢を実現させるため、意気揚々と京都へ帰り、新しい政治である建武の新政(けんむのしんせい)をスタートさせました。
後醍醐天皇が理想としたのは、かつての醍醐天皇や村上天皇が行っていたような、天皇がすべての権力を握る古い時代の政治スタイルでした。「武士が政治に口出しする幕府なんていらない!これからは私がすべてを決める!」と、院政や関白といった仕組みも廃止し、自らが直接命令を出す絶対的なトップに君臨しました。しかし、すでに武士の力が強くなっていた時代に、この時代錯誤なやり方はすぐに大きな歪みを生むことになります。
幕府を倒すために命懸けで戦った武士たちは、「きっと天皇からたくさんのご褒美(土地)がもらえるぞ!」と期待していました。しかし、天皇が発表した恩賞は、公家(貴族)や自分のお気に入りのお寺ばかりを優遇し、頑張った武士たちにはほんの少ししか土地が与えられませんでした。武士たちの間には、「俺たちが血を流して戦ったのに、なぜ戦場に行かなかった貴族ばかりがトクをするんだ!」という強烈な不満が渦巻き始めました。
新しい政治では、土地の所有権を決める裁判も天皇自身が最終決定を下すルールになりました。しかし、全国から「自分の土地を認めてほしい!」という武士たちの訴えが殺到し、役所は大パニック!しかも、天皇のお気に入りの貴族からの口利きで判決がコロコロ変わるなど、エコヒイキや賄賂が横行しました。武士のルールだった「御成敗式目」のような分かりやすい基準もなくなり、社会は幕府の時代よりも大混乱に陥ってしまったのです。
さらに武士や農民を怒らせたのが、お金の問題です。後醍醐天皇は自分の権力をアピールするために、豪華な天皇の住まい(内裏)を建てようと計画しました。その莫大な建設費用を、全国の武士や農民から強制的に税金として集めようとしたのです。ただでさえ恩賞が少なくて生活が苦しい武士たちは、「自分たちの生活を全くわかっていない!」と大激怒。天皇への信頼は、あっという間に音を立てて崩れ去っていきました。
当時の京都の混乱ぶりを痛烈に皮肉ったのが、有名な「二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)」です。「この頃都にはやるもの、夜討ち、強盗、偽の命令書…」というリズミカルな書き出しで始まり、武士が急に貴族の格好をして威張っている様子や、デタラメな裁判、コロコロ変わるルールなど、建武の新政のダメなところをボロクソに書き連ねて京都の河原に貼り出しました。人々の不満が爆発寸前だったことがよく分かります。
そんな不満だらけの1335年、滅亡した鎌倉幕府の生き残りである北条時行(ほうじょうときゆき)が、鎌倉を奪い返すために大軍を挙げて反乱を起こしました(中先代の乱)。このピンチに、武士たちのリーダー的存在だった足利尊氏は「私が鎮圧に行きます!」と名乗り出ますが、後醍醐天皇は「尊氏が力を持ちすぎるのは危険だ」と許可しませんでした。しかし尊氏は命令を無視して勝手に出陣し、あっという間に反乱を鎮圧してしまいます。
反乱を鎮圧した尊氏は、そのまま鎌倉に居座り、自分に従ってくれた武士たちに勝手に土地をご褒美として分け与え始めました。「天皇の許可なく恩賞を与える」という幕府のような振る舞いに、後醍醐天皇は激怒!「尊氏を討ち取れ!」と、新田義貞に大軍を預けて討伐を命じました。天皇の時代を作ろうとする後醍醐天皇と、新しい武士の世を作ろうとする足利尊氏。かつての最強の味方同士が、ついに刃を交えることになったのです。
尊氏の軍勢はいったん九州へ逃れた後、態勢を立て直して大軍で京都へ攻め上ってきました。これを迎え撃ったのが、後醍醐天皇に最後まで忠誠を誓った名将・楠木正成(くすのきまさしげ)です。1336年、現在の兵庫県で行われた湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で、正成は圧倒的な兵力差を前に奮戦するも敗れ、自害しました。正成の死により天皇軍は総崩れとなり、尊氏は悠々と京都へ入城。建武の新政は事実上の崩壊を迎えました。
京都を制圧した足利尊氏は、新しい天皇(光明天皇)を立てて室町幕府を開く準備を始めます。一方、京都を追われた後醍醐天皇は「私こそが本物の天皇だ!」と主張し、南の吉野(奈良県)の山奥へと逃れて別の朝廷を開きました。こうして、京都の「北朝」と吉野の「南朝」という2つの朝廷が同時に存在し、約60年間も日本中を巻き込んで戦い続ける、前代未聞の南北朝時代へと歴史の舞台は移っていくのです。