1787年(天明7年)、米価の異常な高騰に苦しむ庶民が、江戸や大坂などの主要都市で米屋や豪商を襲撃した大規模な暴動です。天明の大飢饉や浅間山の大噴火による大凶作が続く中、利益を優先する商人たちが米を買い占めたことで、お米の値段が例年の数倍に跳ね上がりました。飢えと怒りに耐えかねた数万人規模の民衆が各地で打ちこわしを起こし、日本中はパニックに陥ります。この大混乱は田沼意次が完全に失脚する原因となり、続く松平定信の寛政の改革へと繋がる歴史の決定的な契機となりました。
1780年代の日本は、歴史上最悪クラスの自然災害に見舞われていました。冷害と長雨によって農作物が育たない天明の大飢饉(てんめいのだいききん)が発生し、さらに1783年には浅間山(群馬県・長野県)が大噴火を起こします。空は火山灰で薄暗く覆われ、東北地方を中心に数え切れないほどの餓死者が出ました。農村は壊滅的な打撃を受け、江戸の町へ運ばれてくるお米の量は激減してしまいます。
お米が極端に不足すると、当然お米の値段は上がります。しかし、当時の江戸で起きた価格の高騰は異常でした。一部の悪徳な米商人たちが「お米を隠し持っていれば、もっと値段が上がるはずだ」と考え、意図的な買い占めや出し惜しみを行ったのです。その結果、お米の値段は例年の数倍にまで跳ね上がり、日雇い仕事でその日暮らしをしている江戸の貧しい町人たちは、毎日食べるお米すら買うことができなくなってしまいました。
この時、幕府の政治を握っていたのは老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)でした。彼の政治は商業を重視し、商人から税金を取ることで幕府の財政を潤そうとするものでした。しかし、その裏では役人と商人との間で賄賂(わいろ)が横行していました。飢えに苦しむ庶民の目には、「幕府の役人は自分たちを見捨てて、悪い商人たちと手を組み、私腹を肥やしている」と映り、田沼政治に対する不満のマグマが限界まで溜まっていたのです。
1787年(天明7年)5月、ついに民衆の怒りが爆発します。最初に大規模な暴動が起きたのは「天下の台所」と呼ばれた大坂(現在の大阪)でした。お米の価格急騰に怒った大坂の町人たちが、米屋などを襲撃して建物を破壊したのです。この大坂での暴動のニュースは、あっという間に飛脚(手紙を運ぶ人)などを通じて江戸へと伝わり、すでに限界ギリギリの生活を送っていた江戸の庶民たちの心に火をつけることになります。
大坂の事件から数日後、江戸の町でも遂に大暴動が勃発しました。数万人規模に膨れ上がった群衆が、鐘や太鼓を鳴らしながら江戸中を練り歩き、悪徳と噂された米屋や高利貸し、裕福な大商人の屋敷を次々と襲撃しました。これが江戸時代で最大規模の暴動となる天明の打ちこわし(てんめいのうちこわし)です。怒りに狂った人々は、戸板を外し、蔵を打ち破り、中にある米や家財道具を容赦なく破壊して道路や川へ投げ捨てました。
非常に激しい暴動でしたが、暴徒化した群衆の間にはある「暗黙のルール」がありました。それは「建物を壊すのは良いが、物を盗んではいけない」というものです。彼らの目的はあくまで「悪い商人への社会的制裁(天罰)」であり、泥棒のような卑怯な真似はしないという庶民なりのプライドがあったのです。中には、壊した米俵からこぼれたお米を貧しい人々に分け与える「世直し」を気取る者たちもいました。
将軍のお膝元である江戸の町が数日間にわたって無政府状態に陥ったことで、江戸幕府はかつてない大パニックに陥りました。治安を守るはずの町奉行所の役人たちも、数万人の群衆の前では全く無力であり、ただ暴動が通り過ぎるのを眺めていることしかできませんでした。幕府の権威は完全に地に落ち、「このままでは徳川の世がひっくり返ってしまうかもしれない」という強烈な恐怖が役人たちを支配したのです。
この天明の打ちこわしの波は、江戸や大坂だけにとどまりませんでした。翌月にかけて、駿府(静岡)、小田原(神奈川)、石巻(宮城)、宇和島(愛媛)など、全国の30ヶ所以上の主要な都市へと次々に飛び火していきました。日本中がお米の不足と価格高騰に苦しんでおり、抑えつけられていた怒りが連鎖的に爆発したのです。江戸時代の社会システム全体が、根本から大きく揺らいでいる証拠でした。
この未曾有の大混乱の責任を問われ、すでに権力を失いかけていた田沼意次は、ついに完全に失脚しました。人々は「田沼の金まみれの政治が、この大飢饉と大混乱を招いた天罰だ」と彼を激しく非難しました。意次はすべての役職を剥奪され、財産や領地も大きく没収されるという悲惨な末路を辿ります。商業を発展させようとした彼の挑戦は、自然災害と民衆の怒りという想定外の力によって無惨に打ち砕かれたのです。
田沼意次に代わって幕府のトップ(老中)に就任したのが、白河藩(福島県)で飢饉を見事に乗り切った名君・松平定信(まつだいらさだのぶ)です。彼は大混乱に陥った社会を立て直すため、質素倹約を徹底し、農村の復興を目指す寛政の改革(かんせいのかいかく)を強力に推し進めることになります。天明の打ちこわしは、田沼の重商主義から定信の厳格な政治へと時代が大きく切り替わる、歴史の決定的な契機となったのです。