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養老律令 編纂 ようろうりつりょう へんさん 政治

🕒 718年 🦌 奈良時代
📍 場所: 奈良県 平城京(現在の奈良県奈良市) 👤 関連: 藤原不比等,藤原仲麻呂
718年、最高権力者であった藤原不比等(ふじわらのふひと)の主導によって、日本の基本となる法律「養老律令(ようろうりつりょう)」の編纂(作成)が始まりました。これは、以前の大宝律令を当時の社会の状況に合わせてアップデート(マイナーチェンジ)したものです。しかし、編纂中に不比等が亡くなったことなどから、実際に法律として施行(スタート)されたのはなんと39年も後の757年でした。奈良時代の律令国家の完成を象徴する重要な法律です。
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大宝律令から17年後の見直し

701年に制定された大宝律令(たいほうりつりょう)によって、日本は初めて本格的な法律で動く国になりました。しかし、それから約17年が経過し、法律の文章と実際の社会の状況に少しずつズレが生じ始めていました。そこで718年(養老2年)、当時の朝廷の最高権力者であった藤原不比等(ふじわらのふひと)が中心となり、国家の基本ルールを時代に合わせてより使いやすくするための、法律の大規模なアップデート作業(編纂)がスタートしたのです。
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「律」と「令」のマイナーチェンジ

この時作られた新しい法律が、元号をとって養老律令(ようろうりつりょう)と呼ばれます。「律(りつ)」とは現代の刑法(犯罪と刑罰のルール)、「令(りょう)」とは行政法や民法(政治や生活のルール)のことです。実は、大宝律令から内容が根本的に大きく変わったわけではありません。表現を分かりやすく書き直したり、不便だった細かいルールを微調整したりする、いわば「大宝律令のマイナーチェンジ版」とも言える非常に現実的な見直し作業でした。
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天才政治家・藤原不比等の集大成

法律の編纂を指揮した藤原不比等は、大化の改新で活躍した中臣鎌足(藤原鎌足)の息子です。彼は自らの娘を天皇の妻(皇后)にするなどして、朝廷内で絶大な権力を握った天才政治家でした。日本の歴史上初めて、本格的な都である平城京を建設したのも彼です。その不比等が、自分の政治人生の集大成として、国家のシステムをさらに強固で完璧なものにするために取り組んだ国家の超巨大プロジェクトが、この養老律令の作成だったのです。
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不比等の急死とプロジェクトの凍結

優秀な学者たちを集め、順調に進んでいたかに見えた法律の編纂作業でしたが、開始からわずか2年後の720年に思わぬ悲劇が起こります。プロジェクトの絶対的なリーダーであった不比等が、病気により急死してしまったのです。強力なリーダーシップで政治を引っ張っていた最高責任者を突然失ったことで、朝廷は大混乱に陥りました。新しく作られた法律の原案は完成間近だったとされますが、誰もそれを実行に移すことができず、法律は政府の棚の奥深くへと仕舞い込まれてしまいました。
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法律どころではない!激しい権力闘争

不比等が亡くなった後の奈良時代の朝廷では、激しい権力闘争が巻き起こりました。皇族出身の長屋王(ながやおう)が権力を握り、それを不比等の息子たち(藤原四兄弟)が罠にはめて滅ぼす(長屋王の変)など、血で血を洗う政治的な争いが絶え間なく続いたのです。さらに、恐ろしい天然痘(疫病)の大流行で四兄弟が全滅するなど、社会全体が非常に不安定なパニック状態に陥りました。新しい法律をじっくりと検討して施行(スタート)させるような余裕は、当時の朝廷には全くありませんでした。
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39年の時を超えて、ついに施行

時代は流れ、不比等の死からなんと39年もの月日が経った757年(天平宝字元年)のことです。当時の朝廷で最高権力者の座に上り詰めていた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)によって、長年放置されていた養老律令が突然引っ張り出され、ついに日本全国で施行(実際に法律として運用を開始すること)されました。長い長い冬眠期間を経て、不比等が夢見た新しい国家の設計図が、孫の代になってようやく日の目を見ることになったのです。
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藤原仲麻呂のしたたかな政治的狙い

なぜ仲麻呂は、39年も前の古い法律をわざわざこのタイミングで持ち出してきたのでしょうか。そこにはしたたかな政治的狙いがありました。仲麻呂は自分への反発が強まる朝廷内で、「私は、あの偉大な藤原不比等おじい様の正当な後継者であり、彼の理想を立派に受け継いでいるのだ!」と強くアピールしたかったのです。つまり、養老律令の施行は、国家のためというだけでなく、仲麻呂が自らの権力と正当性を周囲に見せつけるための、非常に高度な政治パフォーマンスだったと言えます。
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強行突破と橘奈良麻呂の乱

しかし、この強引な仲麻呂のやり方に、他の貴族たちは激しく反発しました。養老律令が施行されたのと同じ757年、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)という有力な貴族が、仲麻呂を暗殺しようとするクーデター計画を企てたのです(橘奈良麻呂の乱)。しかし計画は事前にバレてしまい、奈良麻呂たちは捕らえられて過酷な拷問の末に処刑されました。反対勢力を力でねじ伏せた仲麻呂は、この後「恵美押勝(えみのオシカツ)」という特別な名前をもらい、さらに独裁的な権力を振るうようになります。
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律令国家の究極の完成形

ついに運用が始まった養老律令により、国民を戸籍で管理し、土地を分け与える代わりに税金(租・庸・調)を納めさせるという班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)などの基本的なシステムが、より確固たるルールとして定着しました。天皇を中心とし、法律に基づいて国家を運営する律令国家(りつりょうこっか)の仕組みは、大宝律令から始まり、この養老律令の施行によって一つの究極の完成形へと到達した歴史の重要な転換点と言えるでしょう。
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1000年後まで残った「基本法」

興味深いことに、この養老律令はその後、平安時代やそれ以降の時代になっても、公式に廃止されることはありませんでした。もちろん時代が進むにつれて「荘園」が増えたり、武士が台頭したりして、社会の実態と法律はどんどん合わなくなっていきます。しかし、建前上は明治時代になるまで、日本の国家の「基本法(ベースとなるルール)」としてずっと生き続けたのです。藤原不比等が蒔いた法律の種は、形を変えながらも日本の歴史の根底に長く深く根付き続けることになりました。
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