約70年続いた平城京(奈良県)の時代でしたが、桓武天皇には大きな不満がありました。それは、奈良の大きなお寺のお坊さんたちが政治に口出ししてきて、天皇の権力が弱まっていたことです。「このままでは、天皇中心の強い国づくりができない!」と考えた桓武天皇は、お坊さんたちの影響力が届かない新しい土地へ都を引っ越す(遷都)ことを決意しました。
実は、平安京の前に一度、784年に長岡京(ながおかきょう:京都府向日市など)という場所に引っ越しをしていました。しかし、この長岡京の建設中に責任者が暗殺され、その犯人と疑われた天皇の弟(早良親王)が無実を訴えながら死んでしまうという大事件が起きます。その後、天皇の家族が次々と病気で亡くなり、大洪水まで発生。「これは弟の呪いだ!」と震え上がった桓武天皇は、わずか10年で長岡京を捨てることになります。
「もっと縁起が良くて、呪いの届かない最高の場所はないか?」と探していた時、側近の和気清麻呂(わけのきよまろ)がおすすめしたのが山城国(現在の京都市)でした。この土地は、北に山、東に川、南に池、西に道があるという、風水で最も運気が良いとされる「四神相応(しじんそうおう)」のパーフェクトな地形だったのです。桓武天皇はこの場所を気に入り、すぐに新しい都の建設を命令しました。
794年、新しい都が完成し平安京と名付けられました。「平和で安らかな都になりますように」という天皇の強い願いが込められています。作り方は中国(唐)の首都・長安を真似たもので、東西約4.5km、南北約5.2kmの長方形の土地を、道路で「碁盤の目」のように規則正しく区切る条坊制(じょうぼうせい)というシステムを採用しました。現在でも京都市の地図を見ると、この時の真っ直ぐな道の名残を見ることができます。
桓武天皇は、政治に口出しする奈良のお坊さんたちをとても警戒していました。そのため「奈良にある古いお寺は、平安京に引っ越してきてはダメ!」という厳しいルールを作りました。平安京の中に新しくお寺を建てることも制限し、国の平和を祈るための「東寺」と「西寺」の2つしか許可しませんでした。こうして、お坊さんのパワーをシャットアウトし、天皇の絶対的な権力を取り戻したのです。
平安京への引っ越しと同時進行で、桓武天皇が力を入れていたのが、朝廷に従わない東北地方の人々(蝦夷:えみし)を武力で従わせることでした。天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命して大軍を派遣。激しい戦いの末に東北地方のリーダー・アテルイを降伏させ、朝廷の支配エリアを大きく広げることに成功しました。
天皇の権力が強まり、国が安定すると、平安京には貴族たちが集まり、豪華な屋敷を構えるようになりました。ここから約400年続く平安時代は、ひらがなやカタカナが生まれ、『源氏物語』や『枕草子』といった日本独自の美しい文学や芸術(国風文化)が大流行する、日本で最も華やかな時代へと発展していきます。その全ては、この794年の「鳴くよウグイス平安京」から始まったのです。