正徳の治 しょうとくのち 政治 ☆ 重要

🕒 1709年 〜 1716年
📍 場所: 東京都 江戸 👤 関連: 徳川家宣,徳川家継,新井白石,間部詮房
1709年から1716年にかけて、第6代将軍・徳川家宣と第7代将軍・徳川家継の時代に行われた政治改革です。儒学者(学問の先生)である新井白石と側近の間部詮房が主導しました。前将軍・綱吉の時代の悪法であった生類憐れみの令を廃止し、金の含有量を増やした良質な貨幣への改鋳を行って物価の安定を図りました。また、海舶互市新例(長崎新令)を出して海外への金銀流出を防ぎました。理想主義的な文治政治でしたが、のちの享保の改革へと繋がる歴史の重要な分岐点となった出来事です。
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綱吉時代の負の遺産

江戸時代前期、第5代将軍・徳川綱吉の時代が終わろうとしていました。綱吉の時代は元禄文化が栄えましたが、極端な動物愛護法である生類憐れみの令によって庶民は苦しめられていました。さらに、寺社の建設や富士山の噴火対策などで幕府のお金が底をつき、質の悪いお金(貨幣)を大量に作って無理やり景気を良くしようとしたため、物価が急激に上がるインフレ状態となっていました。新しい将軍は、この最悪な状況から政治を立て直す必要があったのです。
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新井白石と間部詮房の抜擢

1709年、第6代将軍として徳川家宣(とくがわいえのぶ)が即位しました。家宣は政治の刷新を図るため、儒学者であった新井白石(あらいはくせき)と、将軍の側近である間部詮房(まなべあきふさ)という二人の優秀な人物を大抜擢します。彼らは身分こそ高くありませんでしたが、非常に真面目で頭が良く、家宣の厚い信頼を受けて政治の実権を握りました。ここから始まる約7年間の政治改革を正徳の治(しょうとくのち)と呼びます。
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悪法「生類憐れみの令」の廃止

新井白石たちが最初に取り組んだのは、庶民を苦しめていた悪法生類憐れみの令の廃止でした。犬や猫だけでなく、蚊を叩いただけで罪に問われることもあったこの異常な法律を直ちにストップさせたのです。牢屋に入れられていた何千人もの人々が解放され、江戸の町中から喜びの声が沸き起こりました。これにより、新しい将軍・家宣と白石たちの政治は、庶民から絶大な支持と期待を集めて力強くスタートを切ることができました。
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正徳の貨幣改鋳とデフレの罠

次に取り組んだのが、急激に上がってしまった物価(インフレ)を元に戻すことでした。綱吉の時代に作られた金の含有量が少ない悪いお金を回収し、昔のように質の良いお金に戻す「貨幣改鋳(かへいかいちゅう)」を行いました。こうして作られたのが正徳金銀です。しかし、お金の質を急に良くしたことで、世の中に出回るお金の量が減ってしまい、今度は物が売れなくなる不景気(デフレ)を引き起こしてしまいます。経済のコントロールは天才学者にとっても至難の業でした。
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海舶互市新例で金銀の流出を防ぐ

また、長崎での外国との貿易にも大きなメスを入れました。当時、日本からは支払いのために大量の金や銀が海外(オランダや清)へ流出しており、国の財産が底を尽きかけていたのです。そこで白石は1715年に海舶互市新例(かいはくごししんれい:長崎新令)を発布します。外国船が日本へ来る回数や、貿易で使っていいお金の量に厳しい制限(上限)を設けることで、日本の貴重な金銀がこれ以上海外へ逃げていくのを強力に食い止めたのです。
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朝鮮通信使の待遇を見直す

外交面でも白石は合理的な改革を行いました。将軍の代替わりごとに朝鮮からやってくる外交使節団である朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)への対応です。それまでは莫大なお金をかけて豪華な接待をしていましたが、白石は「幕府の財政が厳しいのだから、無駄な接待は省き、対等な立場でシンプルに迎えるべきだ」と主張しました。将軍の呼び方も「日本国大君」から「日本国王」に変更させるなど、日本の威信を保ちつつ無駄な出費を削る現実的な外交を展開しました。
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閑院宮家の創設と朝廷への配慮

白石は幕府の権威を高める一方で、京都の朝廷(天皇)に対する配慮も忘れませんでした。天皇の血筋が途絶えてしまうことを防ぐため、新しい皇族の家である閑院宮家(かんいんのみやけ)の創設を支援したのです。実際にのちの時代、天皇の跡継ぎがいなくなった際にこの閑院宮家から天皇(光格天皇)が誕生しており、白石の先見の明が皇室の危機を救うことになります。幕府と朝廷の良好な関係を築くための、高度な政治的判断でした。
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家宣の急死と幼君・家継の即位

改革は順調に進むかと思われましたが、1712年に最大の理解者であった将軍・家宣がわずか3年で病死してしまいます。跡を継いだ第7代将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)は、なんとまだ満3歳の幼児でした。政治を行うことなど到底不可能な幼い将軍を前に、新井白石と間部詮房は全責任を背負って幕府を動かさなければならなくなりました。「自分たちがこの幼君を立派に育て上げ、国を守らなければならない」。二人の重圧は計り知れないものでした。
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大奥の引き締めと絵島生島事件

幼い将軍を守るため、白石たちは幕府の内部の規律を厳しく正そうとしました。そんな中、1714年に江戸城の女性たちの住まいである大奥(おおおく)で大スキャンダルが起きます。大奥の最高幹部であった絵島(えじま)が、歌舞伎役者の生島新五郎(いくしましんごろう)と密会していたことが発覚したのです(絵島生島事件)。白石たちは関係者1500人以上を厳しく処罰し、風紀の乱れを徹底的に取り締まって幕府の権威を必死に保とうとしました。
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正徳の治の終わりと吉宗の登場

しかし1716年、幼い将軍・家継がわずか7歳でこの世を去ってしまいます。将軍の直系血筋が完全に途絶えるという大事件でした。次の第8代将軍として紀州藩から迎えられたのが、のちに徳川吉宗です。吉宗はこれまでの学者中心の理想主義的な政治を嫌い、就任するやいなや新井白石と間部詮房を直ちにクビにしてしまいました。こうして正徳の治はあっけなく幕を閉じますが、その改革の精神は次の時代へと引き継がれる歴史の重要な分岐点となりました。
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