鎌倉幕府を滅ぼしたのち、後醍醐天皇は天皇中心の政治である建武の新政をスタートさせました。しかし、武士への恩賞(土地)の配分が非常に不公平だったため、全国の武士たちの不満は頂点に達していました。この不満を受け止めたのが、倒幕の最大の功労者である足利尊氏(あしかがたかうじ)でした。尊氏は北条氏の反乱(中先代の乱)の討伐をきっかけに、天皇の命令を無視して関東で独自の恩賞を配り始めます。そしてついに、武家政権の復活を掲げて天皇に対して反旗を翻したのです。
天皇に反逆した尊氏は、武士たちの圧倒的な支持を集め、大軍を率いて関東から西へと進軍を開始します。迎え撃つ天皇方の武将・新田義貞(にったよしさだ)の軍勢を箱根や竹之下の戦いで次々と打ち破り、1336年の初め、その勢いのまま日本の中心である京都へと雪崩れ込みました。後醍醐天皇は京都を捨て、三種の神器を持って比叡山(ひえいざん)へと避難するしかありませんでした。尊氏はついに京都を占領し、新しい武士の世が始まるかと思われました。天皇側は絶体絶命のピンチに陥ったのです。
この絶望的な状況をひっくり返したのが、東北地方(陸奥国)の統治を任されていた若き天才貴族・北畠顕家(きたばたけあきいえ)でした。天皇の危機を知った彼は、すぐさま奥州の武士たちをまとめ上げ、猛烈なスピードで京都へ向かって進軍を開始します。なんと、現代の福島県から京都までの数百キロという長大な道のりを、わずか半月ほどで踏破するという、戦国時代顔負けの驚異的な強行軍でした。この若き救世主の登場が、戦いの流れを大きく変えることになります。
京都へ急行した北畠顕家の軍勢は、比叡山に逃れていた新田義貞や、河内国(大阪府)の英雄・楠木正成(くすのきまさしげ)らの軍勢と合流を果たします。それぞれの戦場でカリスマ的な人気を誇るエース級の武将たちが手を結んだことで、天皇方は最強の連合軍へと生まれ変わりました。彼らは後醍醐天皇を守り抜くという強い決意のもと、足利尊氏が占領している京都を奪還すべく、圧倒的な士気と結束力で猛反撃を開始したのです。尊氏にとっては予想外の強敵の出現でした。
1336年1月末、新田・楠木・北畠の最強連合軍は、京都に居座る足利軍に対して四方から一斉に総攻撃を仕掛けました。京都の町を舞台にした激しい市街戦が繰り広げられます。地の利を活かした楠木正成の巧みな戦術と、北畠顕家の率いる屈強な奥州騎馬隊の猛攻の前に、さすがの足利軍も支えきれなくなりました。尊氏は「このまま京都に留まるのは軍の全滅を招く」と冷静に判断し、京都の防衛を諦めて西の丹波国や摂津国(現在の大阪府北部から兵庫県)方面へと撤退を開始します。
京都を無事に奪還した天皇方の軍勢は、逃げる足利軍に息をつかせる暇を与えまいと、執拗な追撃を行って西へと軍を進めます。そして1336年2月10日、現在の大阪府池田市から箕面市にかけて広がる猪名川の河原で、ついに両軍が真っ向から激突しました。これが豊島河原合戦(てしまがわらがっせん)です。後醍醐天皇の絶対的な権威を守り抜きたい天皇方と、武士のための新しい世を創り出したい足利方。日本の未来を決定づけるこの戦いは、数万の兵士たちが入り乱れる壮絶な総力戦となりました。
この戦いで凄まじい執念を見せたのが、天皇方の実質的な総大将である新田義貞です。彼はかつて鎌倉幕府を滅ぼした時の最大のライバルであり、武士の頂点を争う足利尊氏をここで完全に討ち取るため、自ら軍勢の先頭に立って猛攻を仕掛けました。天皇方の圧倒的な勢いと、新田軍の捨て身の突撃により、足利軍の陣形は次々と崩されていきます。兵士の士気で勝る天皇方に対し、激しい連戦で疲労困憊していた足利軍は次第に防戦一方となり、極めて苦しい状況へと追い込まれていきました。
豊島河原での激戦は、見事に連携を保った天皇方の圧倒的な勝利に終わりました。敗北を悟った足利尊氏は、軍勢を立て直すために兵庫(兵庫県神戸市)へと後退します。しかし、新田義貞らの追撃の手は全く緩むことがなく、尊氏は陸路での逃亡すらも諦めるしかありませんでした。彼は生き残ったわずかな家臣たちと共に船に乗り込み、瀬戸内海を通って命からがらはるか遠くの九州へと落ち延びていきました。天下を目前にしていた尊氏にとって、屈辱的で絶望的な大敗北と逃走劇でした。
最大の脅威であった足利尊氏を九州へと追い払ったことで、京都の建武政権は歓喜に包まれました。後醍醐天皇は再び京都の御所へと戻り、「これで反乱は完全に鎮圧された。傷ついた尊氏が再び立ち上がることはないだろう」と深く安堵します。天皇方の武将たちも、勝利の美酒に酔いしれて警戒をすっかり解いてしまいました。しかし、この「勝って兜の緒を締めなかった」油断こそが、天皇方に最悪の悲劇をもたらすことになります。歴史の歯車はまだ全く止まっていなかったのです。
九州へ逃げた足利尊氏は決して諦めていませんでした。彼は九州の武士たちを味方につけて奇跡的なスピードで軍を再建し、わずか数ヶ月後には再び大軍を率いて京都へ向けて進軍を開始します。そして、油断していた天皇方を歴史的な大戦である湊川の戦い(みなとがわのたたかい)で打ち破ることになるのです。豊島河原合戦は、建武政権が勝利を収めた輝かしい瞬間であると同時に、日本が南北朝時代という長い動乱の時代へ突入していく、歴史の重要な分岐点となる戦いでした。