1875年、日本が朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)の沿岸にわざと軍艦を近づけて挑発し、武力衝突を引き起こした事件です。鎖国を続けていた朝鮮に対し、日本はアメリカのペリーが日本にやったのと同じ「大砲の脅し(砲艦外交)」を使って無理やり国を開かせようとしました。この事件を口実に、翌年、朝鮮にとって非常に不平等な日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)を結ばせることに成功し、日本の本格的な大陸進出が始まる特大ドミノとなりました。
日本が明治維新で近代化を進める中、お隣の朝鮮(李氏朝鮮)は外国との交際を拒み、頑なに鎖国を続けていました。日本は新しい政府ができたことを伝える手紙を送りましたが、朝鮮側は「日本の態度が無礼だ!」と受け取りを拒否してしまいます。日本国内では「武力を使ってでも朝鮮を開国させろ」という征韓論(せいかんろん)が盛り上がり、両国の関係はいつ戦争になってもおかしくないほどピリピリと緊張していました。
「言葉でダメなら、力で分からせるしかない!」と考えた日本政府は、ある恐ろしい作戦を思いつきます。それは、かつてアメリカのペリーが黒船で日本にやったのと同じ「大砲を見せつけて脅す作戦(砲艦外交)」でした。1875年9月、日本は海の深さを測る調査を言い訳にして、最新の大砲を積んだ軍艦「雲揚(うんよう)」を、朝鮮の首都(漢城)を守る一番の急所である江華島(こうかとう)のすぐ近くまでわざと接近させたのです。
日本の軍艦が突然目の前に現れたことに驚いた朝鮮の砦は、「勝手に入ってくるな!」と雲揚に向かって大砲を撃ちました。しかし、これこそが日本の狙いでした。「撃ってきたな!正当防衛だ!」とばかりに、雲揚は最新式の大砲で猛反撃を開始します。圧倒的な軍事力の差で朝鮮側の砦はあっという間にボロボロに破壊され、日本軍は島に上陸して大砲などの武器を奪い取り、朝鮮側に大きなダメージと恐怖を植え付けました。
この武力衝突(江華島事件)を口実に、日本は「そっちが先に撃ってきたんだから責任をとれ!」と大軍を背景に強く迫り、翌年の1876年に日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)という条約を無理やり結ばせました。これは「日本人が罪を犯しても日本の法律で裁く(治外法権)」など、かつて日本が欧米から押し付けられて苦しんだ「不平等条約」を、そっくりそのまま朝鮮に押し付けたものだったのです。
この出来事は、日本がアジアの中で「欧米から脅される側」から「力で脅す側(帝国主義)」へと立場を変えた歴史の決定的なターニングポイントです。日朝修好条規によって朝鮮を開国させた日本は、ここから本格的にアジア大陸への進出をスタートさせます。しかし、これが原因で「朝鮮は自分たちの弟分だ」と考えている清国(中国)との関係が最悪になり、やがて日清戦争という巨大な戦争のドミノへとまっすぐ繋がっていくことになります。