646年、中大兄皇子や中臣鎌足らが中心となり、新しい国づくりの基本方針として発表された4つの法令です。これを改新の詔(かいしんのみことのり)と呼びます。豪族が私有していた土地と人々を国家のものとする公地公民(こうちこうみん)をはじめ、新しい地方行政、戸籍と班田収授法、そして新しい税制(租・庸・調)の導入が宣言されました。日本が天皇を中心とした近代的な律令国家へと生まれ変わるための、歴史の決定的な転換点となった最重要の宣言です。
645年の「乙巳の変(いっしのへん)」で強大な蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足らは、いよいよ本格的な新しい国づくりをスタートさせました。彼らが目指したのは、一部の豪族が勝手に土地や人を支配して威張るバラバラな社会ではなく、天皇を中心として法律でまとまる強力な中央集権国家です。そのための新しい国の基本方針(設計図)としてまとめられ、日本全国に向けて高らかに発表されたのが、歴史を動かす「改新の詔」だったのです。
翌年である646年の元日(お正月)、新しい都となった難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや:大阪府)に、全国の有力な豪族たちが集められました。お正月の華やかなお祝いの儀式が終わった後、第36代・孝徳天皇の口から、これからの日本のあり方を根本から変える「4つの新しいルール」が厳かに読み上げられました。これが改新の詔(かいしんのみことのり)です。日本という国が生まれ変わる決定的な瞬間でした。
発表された4つのルールの中で、豪族たちに最も大きな衝撃を与えた第一条が、公地公民(こうちこうみん)の制度です。これまで豪族たちがそれぞれ勝手に私有していた土地(田荘)と人々(部曲)の所有をすべて禁止し、「日本の土地と人々は、すべて天皇(国家)のものにする」と力強く宣言したのです。これは、豪族たちの財産や特権を国が強制的に没収することを意味する、当時としてはとんでもなく過激で革命的な財産没収の大改革でした。
もちろん、突然「自分の土地と家来を国に全部渡せ」と言われて、豪族たちが素直に納得するはずがありません。強い反発が予想される中、リーダーである中大兄皇子は自ら率先して、自分の持っていた広大な私有地と大勢の家来たちを真っ先に国へと返上しました。「トップである私が手放したのだから、お前たちも従え」という強烈なプレッシャーです。この捨て身の覚悟の前に、豪族たちは渋々従うしかありませんでした。
第二条では、地方の行政ルール(地方の治め方)が新しく決められました。都(首都)である「京」と、その周辺の特別な地域である「畿内(きない)」の範囲をはっきりと定めました。さらに、全国を国(くに)・郡(こおり)などの単位に細かく分け、それぞれに国が選んだ責任者を派遣して治めさせることにしたのです。また、都と地方を結ぶ交通のネットワーク(駅馬・伝馬)を整備し、国の命令が全国の隅々にまで素早く届く仕組みを作り上げました。
第三条では、国民を管理するための戸籍(こせき:家族の登録簿)と計帳(税金の台帳)を作ることが命じられました。これにより国は「どこに誰が何人住んでいるか」を正確に把握できるようになります。そして、その戸籍のデータを元にして、6歳以上のすべての人々に国から平等に田んぼ(口分田)を分け与え、死んだら国に返させるという班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)という画期的なシステムがスタートすることになります。
第四条は、新しい税金のルールである租・庸・調(そ・よう・ちょう)などの導入です。人々に田んぼを分け与えた代わりに、そこから収穫された稲(租)や、地方の特産物(調)、布や労働力(庸)を、国の税金としてきっちりと納めさせることにしました。これまでの古い強制労働の仕組みをやめ、戸籍に基づいてシステマティックに税金を集めることで、国は巨大な軍隊を持ったり、立派な都を建設したりするための安定した莫大な収入源を確保したのです。
このように完璧に見える「改新の詔」ですが、実は発表された646年のお正月に、この4つのルールがすぐに日本全国で実現したわけではありません。当時の政府には、全国の土地や人口を正確に調査するだけの余裕はまだなかったからです。この詔は、「これから数十年かけて、日本をこういう素晴らしい国にしていくぞ!」という、中大兄皇子たちの強い理想と目標を掲げた「国家の設計図(マニフェスト)」だったと言えます。
土地と領民を奪われた豪族たちはどうなったのでしょうか。彼らはただ財産を没収されて路頭に迷ったわけではなく、代わりに新しい国の役人(官僚)として採用され、身分や仕事の重要度に応じたお給料(布や特別な土地など)を国家からもらうようになりました。独立した小さな王様のような存在だった豪族たちは、こうして天皇の下で働くピラミッド型の組織の歯車の一つへと完全に組み込まれました。日本の社会構造が根本から作り変えられたのです。
646年の改新の詔の発表から始まった一連の政治改革を総称して「大化の改新」と呼びます。中大兄皇子らが描いたこの理想の設計図は、その後の壬申の乱や大宝律令の制定を経て、約半世紀という長い時間をかけてついに現実のものとなります。この詔は、日本が遅れた豪族の連合体から卒業し、法律に基づいた近代的な律令国家(りつりょうこっか)へと力強く生まれ変わるための、歴史の決定的な端緒を開いたのです。