1回目の出兵である文禄の役の後、日本と明(中国)の間で和平交渉が行われました。しかし、日本の小西行長と明の使者は、お互いの君主に嘘をついて偽りの条件で和睦を結ぼうと企んでいました。1596年、明からやってきた使者が読み上げた手紙には「秀吉を日本の王として認める」とだけ書かれており、秀吉が要求した領土の割譲などは一切無視されていました。騙されていたことに気づいた豊臣秀吉は激怒し、交渉は完全に決裂してしまいます。
怒り狂った秀吉は、「明と朝鮮を力でねじ伏せる」として、再び大軍を海を越えて派遣することを決定します。1597年(慶長2年)、約14万人もの日本軍が再び朝鮮半島へと上陸しました。これが2回目の朝鮮出兵である慶長の役(けいちょうのえき)です。前回とは異なり、明や朝鮮軍もすでに日本の戦法を研究し、万全の防衛体制を整えて待ち構えていました。最初から極めて困難な、泥沼の戦争の幕開けでした。
日本軍は前回の反省を活かし、小早川秀秋を総大将として、加藤清正(かとうきよまさ)や黒田長政などの猛将たちを最前線に送り込みました。上陸直後は日本軍が優勢で、漆川梁海戦(ちょんりゃんへせん)では朝鮮水軍を壊滅させるなど、順調に進軍して半島南部を制圧していきます。しかし、明の大軍が朝鮮の援軍として本格的に参戦してくると、戦況は次第に日本軍にとって厳しいものへと変わっていきました。
快進撃を続ける日本軍の前に立ちはだかったのが、前回も日本軍を苦しめた朝鮮水軍の英雄・李舜臣(りしゅんしん)でした。彼はわずか十数隻の船で、鳴梁(めいりょう)海峡の激しい潮流を巧みに利用し、日本水軍に大打撃を与えます(鳴梁海戦)。これにより、日本軍は海からの食料や武器の補給ルートを再び断ち切られることになり、前線で戦う陸上の部隊は深刻な物資不足と飢えに苦しむことになってしまったのです。
補給を絶たれた日本軍は、さらに過酷な状況に追い込まれます。1597年末、加藤清正が守る蔚山城を、明・朝鮮連合軍の数万の大軍が包囲しました(蔚山城の戦い)。未完成の城に閉じ込められた清正たちは、極寒の中で食料も水も底を尽き、馬や壁の土まで食べて飢えをしのぐという地獄のような籠城戦を強いられます。毛利秀元らの援軍によって奇跡的に包囲を破りますが、日本軍の疲弊は限界に達していました。
内陸部への進軍を諦めた日本軍は、戦術を大きく転換します。朝鮮半島の南岸沿いに「倭城(わじょう)」と呼ばれる日本の築城技術を活かした頑丈な城をいくつも築き、そこに立てこもって明・朝鮮連合軍の攻撃を迎え撃つ防衛戦へと切り替えたのです。敵を城に引きつけて鉄砲で撃退する戦法は効果的でしたが、それはもはや明を征服するという当初の目的から完全に外れ、異国の地でただひたすら耐え忍ぶ持久戦となっていました。
この戦争の悲惨さを物語るのが「鼻切り」という行為です。当時、武士たちは敵を倒した証拠として敵の首を持ち帰るのが普通でしたが、遠い朝鮮半島から大量の首を腐らせずに日本へ運ぶことは不可能です。そこで秀吉は、首の代わりに敵の「鼻」や「耳」を切り取って塩漬けにし、日本へ送るよう命じました。京都には現在も、これらを埋葬して供養した「耳塚(鼻塚)」が残されており、戦争の恐ろしい惨劇を現代に伝えています。
1598年8月、終わりの見えない戦争を根本から揺るがす最大の転機が訪れます。日本で戦争を指揮していた絶対的権力者・豊臣秀吉が、病により62歳でこの世を去ったのです。秀吉の死という重大なニュースは、敵に弱みを見せないために最高機密として隠され、前線で戦う武将たちには「全軍、日本へ撤退せよ」という命令だけが伝えられました。こうして、大義名分を失った日本軍の決死の撤退作戦が始まりました。
日本へ帰るためには、敵が待ち受ける海を突破しなければなりません。1598年11月、撤退しようとする日本軍を、李舜臣率いる明・朝鮮の水軍が猛烈に追撃し、露梁(ろりょう)海峡で最後の激しい海戦が勃発しました(露梁海戦)。日本軍は大きな被害を出しながらも、なんとか包囲を突破して帰国の途につきます。一方、この戦いで敵の李舜臣も流れ弾に当たって命を落としました。両軍に深い傷跡を残し、7年に及ぶ戦争は終結しました。
慶長の役は、日本、明、朝鮮の三国すべてに甚大な被害と疲弊をもたらしました。特に日本では、過酷な海外出兵を強いられて領地も得られなかった大名たちの間に、豊臣政権への強い不満が渦巻くようになります。石田三成ら官僚派と加藤清正ら武断派の内部対立は、秀吉の死後に爆発し、やがて日本を真っ二つに分ける関ヶ原の戦いへと直結します。朝鮮出兵は豊臣政権を崩壊へと導き、歴史の流れを変える決定的な分岐点となったのです。