1863年、外国人を武力で追い出そうとする尊王攘夷(そんのうじょうい)の思想に染まった長州藩は、関門海峡を通る外国船に大砲を撃ち込む「下関事件」を起こしました。アメリカやフランスから手痛い反撃を受けたにもかかわらず、長州藩は「次は絶対に負けない」と海峡を封鎖し続けました。国際的なルールを完全に無視して我が道を行き、外国船への攻撃をやめない長州藩の強硬な態度は、ついに世界最強の欧米列強を本気で激怒させてしまうことになります。
長州藩の海峡封鎖により、アジアの重要な貿易ルートを妨害されたイギリスの怒りは頂点に達しました。「このまま日本の田舎侍の暴走を放置しておけば、我々の莫大な利益が台無しになってしまう」。駐日イギリス公使であるオールコックの強い呼びかけにより、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国が手を結び、強力な四国連合艦隊(しこくれんごうかんたい)を結成します。長州藩に強烈な罰を与えるための、恐るべき報復作戦がいよいよ動き出しました。
連合艦隊が日本へ出発する直前、イギリスに密かに留学していた長州藩の若者、伊藤博文(いとうひろぶみ)と井上馨(いのうえかおる)が急いで日本に帰国しました。彼らはロンドンで西洋の圧倒的な文明と近代的な軍事力をその目で直接見ており、「今、本気で戦争をすれば長州藩は確実に滅亡する!」と確信していました。二人は急いで故郷へ戻り、無謀な戦争をなんとか止めようと、主戦論に染まる藩のトップたちを必死に説得しようと試みます。
伊藤博文たちの必死の訴えも、頭に血が上っている過激な武士たちには全く届きませんでした。彼らは「臆病者め!西洋の軍艦など我々の大砲で海の底に沈めてやる」と聞く耳を持ちません。説得が失敗に終わった直後の1864年8月5日、ついに四国連合艦隊の巨大な軍艦17隻が関門海峡(下関)に姿を現しました。日本のわずか1つの地方の藩が、世界最強の4カ国を同時に相手にするという、絶望的で無謀な戦争の火蓋が切って落とされたのです。
長州藩は海岸に大砲を並べて必死に迎え撃ちますが、勝負はあっという間につきました。連合艦隊の軍艦が積んでいる最新式の大砲は、長州藩の大砲よりも遥かに遠くまで正確に届いたのです。海上の安全な距離から雨あられと撃ち込まれる砲弾によって、長州藩の砲台は次々と破壊され、一瞬にして火の海に包まれました。日本の武士たちが持つ気合いや刀だけでは、最新の科学技術で作られた西洋の圧倒的な近代兵器には全く歯が立たなかったという残酷な現実でした。
猛烈な艦砲射撃で長州藩の反撃を完全に黙らせた後、連合艦隊は陸地に武装した海兵隊を次々と上陸させました。近代的な軍事訓練を受けた西洋の兵士たちは、旧式な武器で立ち向かう長州藩の兵士たちをいとも簡単に蹴散らし、海岸にあった大砲をすべて破壊して奪い去りました。わずか数日の戦闘で、長州藩が誇っていた軍事力は完全に粉砕されます。このあまりにも悲惨な惨敗により、長州の武士たちは武力による尊王攘夷が絶対に不可能であることをついに悟ったのです。
完膚なきまでの大敗北を喫した長州藩でしたが、藩のトップたちは報復を恐れて誰も外国の代表と交渉(講和)に行こうとしません。この絶体絶命の大ピンチに交渉役として白羽の矢が立ったのが、謹慎処分を受けていた型破りな風雲児・高杉晋作(たかすぎしんさく)でした。高杉は立派な武士の正装である烏帽子と直垂という堂々たる姿でイギリスの旗艦に乗り込みます。そして、連合艦隊の司令官たちを相手に、藩の運命を懸けた一歩も引かない命がけの交渉に挑みました。
連合艦隊は、莫大な戦争賠償金に加えて「下関にある彦島(ひこしま)という島を租借地(外国の領土)としてよこせ」と要求してきました。これは清(中国)が香港を奪われたのと同じ、日本の植民地化への恐ろしい第一歩です。しかし高杉は、この要求に対してだけは「日本の土地はすべて天皇のものであるから、藩の都合で勝手に渡すことは絶対にできない!」と古事記の神話を長々と語り出し、のらりくらりと徹底的に拒絶の姿勢を貫き通したのです。
言葉の通じない高杉の奇妙な態度と頑なな拒否に、連合艦隊の司令官たちもついに呆れ果ててしまい、結果的に「彦島の割譲」の要求を諦めました。もしここで高杉が少しでも弱気になり島を渡していれば、そこを足場にして日本全体が外国の植民地にされていた危険性があります。高杉晋作の命がけのハッタリと強気な外交交渉術が、日本という国家が西洋列強に完全に支配されてしまうという最悪のシナリオをギリギリのところで防いだ奇跡的な瞬間でした。
この四国艦隊下関砲撃事件での完全な敗北は、長州藩に強烈なパラダイムシフトをもたらしました。「外国を追い出すには、まずは古臭い幕府を倒し、西洋から最新の技術や武器を取り入れた強力な近代国家を作らなければならない」。現実を直視した長州藩は、ここから西洋式の軍隊作りへと猛邁進し、やがてかつての敵であった薩摩藩と手を結んで(薩長同盟)、倒幕と明治維新へと突き進んでいく歴史の決定的な契機となったのです。